Daily Archives: 23/11/2022

14        幸せのある社会  フランス光明院主 融快(ダニエル ビヨー)                                             訳者 融仙  人生は挑戦して乗り越えるもの, 幸せはふさわしい功績に応じて得る、冒険は試してみる。                                マザー テレサの言葉より 我々は生きる上で最小限必要とするものがある。確かに貧乏より金持ちのほうが良い、安全にある程度自由な暮らしが出来る。しかしそれも限界をすぎると不要なことが多い。 神や仏を知るものは心安らかに多少を問わず満足して暮らし大切な人生を有意義に生きるが、神や仏という概念を失ってしまって宗教は古くさい迷信であるかのように思っている人たちも多い。祈ることの必要も、毎日の生活に喜びを見出すために仏教で教える戒律を守る必要があることも知らないでいる。普通、思いが叶わない時とか不運に出会うと救いを求めて神仏にすがるが、これでは残念至極である。波乱多い人生には神仏のおかげで見い出し学ぶことが多くある。感謝の気持を育てると神仏と心で結ばれ、心が輝き喜びに満たされる。心から発した光が渦を巻き頭上(ウシュニシャ)に達するので多くのことが直感的に分かるようになる。何よりも生命の一体感に目覚め、地上の全ての生物が本質的には宇宙から来た同一の生命力を持っていることに気がつくようになって、心でつながった他の生物にやさしくしたくなる。限りなく大きな慈悲心が生まれる、世界の遠くまで明るい喜びを伝えることが出来る。聖天様に祈ろう。幸せになり世の役に立つ生きがいある人生を送るようになる。祈れば啓示が与えられ、人類の発展と幸せという大きな目的のために我々も尽くすことが出来る。毎日の生活のなかで他のためにやさしくして楽しく暮らすことが出来る。 我々は大自然の一員である 大地から発する生命力を吸っていると健康で均衡ある身心を保つことが出来る。”幸せは野原にある。”と言う。なぜなら我々は自然の一員であるからである。 地上の全ての生物は異なった種類間での交配によって生まれてきた。我々の肉体は花や木々などの植物、動物たちの目には見えないエネルギーを必要とする。心が動揺した時などじっと木を眺めていると心が通い合って落ち着いてくる、良薬である。無機物を科学的に分析するような研究だけでは世界を充分理解することは出来ない。世界は生きていて、生命、愛、美を我々の幸せのために発信している。心の感受性が清められ繊細になるとこうした事がよく感知されるのでいたるところにある生命の躍動を伝え合うことが出来る。レーザーを使っての観察によると樹木は膨張と収縮を毎時間繰り返していることが報告されている。我々と同じように呼吸しているのである。動物だけではなく全ての植物にみられる現象である。このような生命力は花屋の店頭やスーパーの野菜売り場でも感じられる。他の売り場では感じられないことである。 同様に献花のない寺の仏前では生き生きとした生命力が溢れていないのを少しでも感受性の有る人は直ちに感じ取る。多くの仏が蓮華の中に表されているのも偶然のことではない。瞑想の修練を深めて本来の自心を知るためには、大きい光の庭にいるように身体の各部分、上、下、周りに光の花を開花させねばならない。釈迦牟尼仏が菩提樹の下で悟りを開かれた時大きく広がった枝により宇宙の生命との交流が保たれていた。 真言宗ではこの生命力を大日如来(大きな太陽)と言う。宇宙のあらゆる存在はこの光から造られている。原子、分子、細胞を始めとしてありとあらゆる生物が生まれたのである。これほどの美しさと調和ある世界、驚くべき現象には深い感嘆の念を抑えきれない。自然は無心で善であり何の意図もなく全てに必要とするものを与えている。 我々の心に愛が満ちていると、他に幸せを与えることは当たり前になり、思い迷うことなく心のままに世界と調和ある人生を生きることが出来る。 神仏は全ての生命体の内に存在する 地球は宇宙の中でも極めて貴重な存在である。生命体がありこれほどの多種多様の生物のいる天体はまれである。地球上のあらゆる生物は目には見えない輝く叡智の現れであるから大切にされねばならない。世界の発展上これらの生物が様々な分野で働いてきたからこそ人類が出現したのである。 古代社会で、ドリュイドと呼ばれていた司祭は神に祈り自然の中にお告げを探して未来を知ろうとした。神や仏は自然を通して我々を導く。例えば我々の一言と同時に鳥が鳴く、虫が動くなどの些細なことでも宇宙から送られたしるしであるとみなすことが出来る。神や仏の智慧は差別することなく全ての生物に同時に表される。 ある時、神々が仏の慈悲心を試そうとした。鷲に追われた小鳩が仏の衣の袖の隠れたのを追ってきた鷲は家族を養うためにその鳩がないと皆死んでしまうと言った。鳩を渡せないなら同量の肉を出せと要求をした。仏は鳩を秤に載せ切りとった自分の肉を一方に載せて量った、次々といくら大きい肉を載せても同じにならなかった。なぜなら宇宙全体から見ればひとつの生命は他の生命と同等の価値があるからである。 我々は全体的に生命を把握できない、個々別々に存在し対立するものと思い込んでいるからである。輝くエネルギーは様々な形の生命体から同時に発散している。生まれ変わるたびにめぐり逢いひと時を一緒に歩んで行く我々である。仏でも人として生まれる前に幾つもの動物の生を経てきた。仏や聖者たちは大きな慈悲心に目覚め他を救うために自らを犠牲にした功徳を積んで人間に到達したのである。本当の連帯感は人間同士の間に限るものではない、大小の動物や植物等感じる心を持った全ての生物を総括するものである。地球は混沌とした有機物体であり、小さい物が大きい物の生存を可能にしている。全てが仏性のある友と思うと慈悲心を持つのは当然のことである。 宇宙全体が生命の息吹を吸っている。神や仏に絶えず感謝していると目には見えない次元の世界からの光が心に降りてくるので身体中に喜びが満ちて健康になる。光によって身体の閉ざされていた各部分の扉を開きチャクラと言うエネルギーの中心が花のように開花する。世界の全ての生物が幸せであるように平和を念じてこの光を捧げて祈る。 本質的には皆がすでに仏である。他人に悪をする者は未熟な初心者でしかない、自我に囚われて心が固く凝縮しているので人に及ぼした苦しみに気が付かないでいる。不愉快なことをする人、不正をする人に出会っても相手を憎しみ負かすことを望んだりしないで隠されている仏を見出すのが好ましい。そうすれば争いを鎮めることが出来る。或いは我が過去生の悪業を清めるためであったとか、礼儀正しい人間にするために祈って欲しいという仏の頼みであったかもしれない。 子供が欲しいものが得られないと怒ったりわがままを言ったりするからと言って憎むことができようか。大人でも時とすると子供のように振る舞う人がいる。 絶えず他と比べ妬んだり恨んだりしているより互いに助け合うように努めるべきである。一人に施した善行は人類全体を潤す。積んだ功徳はいつかは思いがけなく帰ってくるものだ。 良い波長を発するために心の内に喜びを培う。 宇宙の叡智によって地球上に生命が創造された。創造は休みなく続けられ我々の日常生活にも毎日表わされている。より良く導かれるためには絶えず感謝の念を大きくし心を広げる、仏の世界の喜びを発信する波長と結びつくことである。ラジオを聞くに良い波長に調節するのと同じである。心に満ちた喜びが幸せや善き人たちを引き寄せるようになる。私は動物や樹木と話すのが好きである。彼らは私の言うことが分かるような気がする。こんな優しい友達がいるのは嬉しい。但し、人間と同じように個性があり頑固で気まぐれな時もあるので優しいだけではないこともある。 頭の良い繊細な若い女性が都会に住んでうつ病になったが田舎に移って庭の花や樹木の手入れをしたり家畜に餌をやったりするうちにすっかり回復した例を知っている。都会では灰色のセメントが大地からの生命力を遮断しているように思えたが田舎では自分が花咲くモクレンになったように感じると話していた。自然には愛と美、調和が息づいている。感嘆し感謝の念を持って眺めるとその生命力とつながって力が湧き安らぎと健康がもたらされる。 同様に、日常生活で使う細々とした品物にも仏がおられることに感謝すれば生きる歓びは更に大きくなる。小さい鉢植えの花でも健康になる友となることがある。また敬い信頼し合った人からの贈り物などを感謝の気持ちを持って見る。尊敬する師の書を身近に飾ると、師亡き後もいつまでも敬愛した過去が蘇り幸せだった思いをあらたにする。 例えば、光明院に奉られている本尊不動明王像と両部曼荼羅は私達の求道心と努力に感銘した篤志家と友人の僧たちからの贈り物である。私は長年欲しいと思っていたが人に話したことはなく、聖天様と天の宝を守る虚空像菩薩に祈っていただけである。仏は目に見えない世界から見守り祈る者の願いを適時に実現させられたと思う。また川崎大師から贈られた荘厳の仏具などを見ると、冬に日本に行くたびに大きな山門の前でフランスに寺院建立のために支援をお願いしますと書いた立て札を立てて托鉢をした思い出でが浮かばれる。お大師様の教えをフランス、西洋に伝えるために日本やフランスで人々の暖かい協力を得られたことは今日までも努力を続ける勇気の源になっている。皆さんありがとう。 心と身体を汚し愛の源泉を断つもの 人々は理屈上は他を傷つけるべきではないと言う仏教の掟を知っているが、自分の言う言葉に充分気をつけているとは思えない時がある。黙ること、聞くこと、相手を非難する代わりに理解するべきであることがよく分かっていない。話に夢中になると気をつけることを忘れてしまう。世界中の国々で古くから話す前に充分考慮することを教えている。例えば、フランスでは”話す前に口の中で舌を7回まわせ”日本では”口は禍の門”また古代ギリシャには”一番美味しい料理を注文したら舌が出された。次の日に最もまずいものと言ったら同じ舌の皿を持ってきた。”と言う話がある。乱暴な言葉、罵りで人を傷つけるようなことを言うべきではない。自分では面白いと思っても他にすれば面白いどころか後々までも傷跡を残すことがある。仏教の十善戒の教えにも嘘を言わない、お世辞を言わない、悪口を言わない、騙さないと諌めている。口にした当人ばかりか他にも不調和の根を残す。 紀元前(551)、孔子は避けるべき悪友としておべっか、偽善家、嘘つきの3種を挙げている。これらの人と付き合っていると騙して自分に都合の良いように操るから後の争いの根になる。一方的な味方をしたり苛立ったりしない様に気をつければ心を平静に保つことが出来る。静かで清らかな心は真実の宝物である。どんな人と付き合い何をして時間を過ごすかが幸せを得る決め手になるから我々自身が我々の幸せの責任者であると言って良い。 長年瞑想を続けて修練していると見えない影響にも感じやすくなる。イスラム教の一人の修道女が王宮からの灯油を受け取ったがその日から祈っても神の姿がぼやけるので灯油を返したら心の清らかさと神との継りが元のようになったという話がある。悪意ある人とか心の動揺した人たちからの贈り物は受け取らないほうが良い。 人は内に欲求不満や恨みを沢山抱えている。不健全な読み物や映画の乱暴で残忍な画面を見て強いのは自分であるかのような暗示にかかり、うさはらしをして気を紛らせているが心は汚され固く萎縮する。おまけに乱暴が当然のように慣れてしまう。子供向けの漫画などにもひどく激しい場面が多い。我々は外からの影響を受けやすく、そしてますます巧妙な仕方で操ろうとする現代である。良い影響を探し悪を避けるには注意して正しい判断をするように気をつけなくてはならない。しかし長く考える必要はない、心がすぐに良し悪るし感じるであろう。 日常生活での祈り アレキシー カレルは”本当の祈りは生き様にある、真実の生活は文字道理ひとつの祈りである。”と言っている。私は心から尊敬した師僧たちの日常生活での品位ある立ち居振る舞いにいつも驚かされていた。その動作、言葉、考え方には到達されている内面の和と平静が表れていたのを思い出す。 僧院は自己の抑制のための長い修練の場である。日本の寺では僧たちは毎朝5時に起床、1時間の勤行と瞑想の後、寺の内外を清掃する。庭を掃き床を磨く。年一回秋には綿密な大掃除が行われる。外を清めるは心の内を清めることになるので過去からの悪業や煩悩から解放される。天台宗には、12年間寺にこもって外に出ず清掃と祈りに明け暮れるという厳しい修行があると聞く。我々の内に隠された宝を見出すためには、まず自心を清めるための修行と心を乱す全てを断念する意志と時間とを持たねばならない。 寺院に普通敬虔な雰囲気が漂っているのは仏の世界の光が奉られた仏像に降りるように祈る僧たちの日々の祈りの積み重ねである。清いエネルギーが参拝に来た信者たちの思い、悲しみ、妬み、嫌悪などの暗い感情を洗い流して清める。清いエネルギーを常に水準高く保つためには僧たちの絶え間ない努力が必要とされる。心の内での集中と外部の多くの仕事を両立させ果たしていくのは容易ではない。宗教者として人々の話を聞き、相手の感情的な動揺から身を守りつつ助言をしたり救いを与えたりして対応する。そのためには綿密な規律と時間を守り、空の瞑想をすることによって心を清める。不動明王の前での護摩は業を焼き清めるので、祈っていると心に喜びが生まれ心配事にも耐えやすくなる。皆で一緒に祈ると心から心に喜びが伝わリ各人の喜びと知恵が交流する、祈った後は皆が明るく幸せになるのでグループの祈りは一層効果的である。 大事な会合や試験の前に寺院に行って祈ると障害がなくなり万事順調にいく。仏のおかげをいただくには感謝して御縁を保つことである。感謝の念を心に持つと起きる自分や周りの人々の変化がはっきりと分かり、日常生活の中でも毎日祈り続けたくなる。おかげを授かることに感謝すれば良い。祈りの時間と生活との区別はない、仏はすべての生き物、植物、太陽のみならず日用品にも何処にもおられる。どんな姿形であっても私のためにあることに有難うを言う。このような意識を持つと修行が永続するし、寺を離れるとすぐに怠けるなどという罠に陥ることはない。世間で見る普通の人々の中にも仏の働きが現れているから感謝する、運転手さん有難う、電気屋さん有難う、清掃する人有難う等、、、但し瞑想して祈る修行で進歩した、真言を唱えて才能を伸ばしたと得意になるのは大きな間違いである。真言は門を開けるが光をもたらすのは仏である。その証拠には毎日の修行を怠ると心が固くなり慈悲心を失う。悪魔は自惚れて自分がしたと思う、ところが聖者は神や仏に感謝して謙虚になる。かって尊敬した今は亡き師僧たちのようになりたいと思って、私は心の中で度々呼んで常に感謝している。 般若心経は色即是空、空即是色と教える。我々の実生活も空の表れであるように、他に幸せを与える祈りの人生となるように感謝しよう。世俗を離れ、好奇の目から隠れるように質素に生きて密かに祈り続ける修行者のように生きよう。仏の世界と絶えず交流していると大智が得られる。自分自身のためにはこの世の何も望まず、空に生きて最高の叡智に到達するように努めるだけである。こうして全ての生物のために救いをもたらす。争いがあってもどちらの味方もしない、仏が双方に働いて和が戻ることを祈る。人目に立つことなく慎ましく謙虚であれば自分自身も調和した生き方が出来る。 世界を変える 世界の政治家たちは世の中を対立したものとしか見ないから戦争をする。他国の資源を奪い自国の富を蓄えて競争し統治しようとする。自分の国を愛するからと言って他の人々の生命を犠牲にすることを正当化することは出来ない。善意は知恵や意志によって決まるものではない。本当の善人は人々と心と心で継り、広い心を持つから善意ある行為をするのが当然のようになる。金持ちだけの学校で教育を受けた人は貧乏人に優しくしようと思っても優越感を隠せない。軽蔑心が植え付けられているからである。たとえ親切にしても選挙に有利なためとかなどの計算ずくである。 16世紀のフランスの聖者、サン ヴァンサン ド ポールはパリの路上で餓えた貧しい人々の世話をするために金持ちに寄付を頼んで歩いた。時として食事に招かれることもあったが、いつも遅れてきた。なぜなら通りで物乞いをして得たパンを持ってくるためであった。彼は金持ちが貧しい人たちのパンを分け合うことによって連帯感を持つことを望んだのである。心を広げるとは謙虚になって世の不幸な人々と身近になって自分の家族同様に思うことである。これが大慈悲、限りなく大きい慈悲心である。 キリスト教の修道院の夕方の祈りに”神は世界を操る権力者たちを投げ捨て、貧しい人たちを天に引き上げ、金持ちたちを手ぶらで追い返す。”というのがある。 世の偉大な宗教の指導者達、釈迦牟尼仏、キリスト、後の弘法大師の人柄と行為に表された善意は世を輝かし世界の歴史を変えてきた。。その教えは現在に至るまで広く我々の導きとなっている。我々も世界を変えたいと思うなら、まず自分自身がより良く変わらねばならない。我々の内に積んだ精神修養が振るまいや話し方優しい繊細な心となって外に表されねばならない。日常の生活の中で誰もが仏とならねばならない。善意に満ちた思いが人の心を少しずつ変える。心明るく優しく保つために何人も何物も嫌うべきではないが時としてそれが難しいのはよく分かっている。 心穏やかに平静を保つためには全てが無常であることを認めなくてはならない。いつかは消える身であり物であるからである。原住民の言葉に”我々は皆がこの場のこの時の訪問者である。通過するだけだ。その間の目的はよく見て覚えて大きくなり愛することである。それから家に帰るのだ。”とある。我々の地球での通過は生命の一体感を発展させ広げるためである。これは仏の特性のひとつである。 エゴ(自我)からの解放 授かった全てに感謝の念をいだき慈悲心を育てる、人生哲学の基盤でありエゴの砦から解放される法である。自分で生きているのではなく他によって生かされているのである。父母の恩、国の恩、衆生の恩、三宝(仏法僧)の恩の四恩に感謝して祈ると心が広くなるので周りの出来事もよく理解できる。こうして悟りに至ることが出来るようになる。                ”生けるもの全てが我四恩である”弘法大師、十住心論より