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14        幸せのある社会  フランス光明院主 融快(ダニエル ビヨー)                                             訳者 融仙  人生は挑戦して乗り越えるもの, 幸せはふさわしい功績に応じて得る、冒険は試してみる。                                マザー テレサの言葉より 我々は生きる上で最小限必要とするものがある。確かに貧乏より金持ちのほうが良い、安全にある程度自由な暮らしが出来る。しかしそれも限界をすぎると不要なことが多い。 神や仏を知るものは心安らかに多少を問わず満足して暮らし大切な人生を有意義に生きるが、神や仏という概念を失ってしまって宗教は古くさい迷信であるかのように思っている人たちも多い。祈ることの必要も、毎日の生活に喜びを見出すために仏教で教える戒律を守る必要があることも知らないでいる。普通、思いが叶わない時とか不運に出会うと救いを求めて神仏にすがるが、これでは残念至極である。波乱多い人生には神仏のおかげで見い出し学ぶことが多くある。感謝の気持を育てると神仏と心で結ばれ、心が輝き喜びに満たされる。心から発した光が渦を巻き頭上(ウシュニシャ)に達するので多くのことが直感的に分かるようになる。何よりも生命の一体感に目覚め、地上の全ての生物が本質的には宇宙から来た同一の生命力を持っていることに気がつくようになって、心でつながった他の生物にやさしくしたくなる。限りなく大きな慈悲心が生まれる、世界の遠くまで明るい喜びを伝えることが出来る。聖天様に祈ろう。幸せになり世の役に立つ生きがいある人生を送るようになる。祈れば啓示が与えられ、人類の発展と幸せという大きな目的のために我々も尽くすことが出来る。毎日の生活のなかで他のためにやさしくして楽しく暮らすことが出来る。 我々は大自然の一員である 大地から発する生命力を吸っていると健康で均衡ある身心を保つことが出来る。”幸せは野原にある。”と言う。なぜなら我々は自然の一員であるからである。 地上の全ての生物は異なった種類間での交配によって生まれてきた。我々の肉体は花や木々などの植物、動物たちの目には見えないエネルギーを必要とする。心が動揺した時などじっと木を眺めていると心が通い合って落ち着いてくる、良薬である。無機物を科学的に分析するような研究だけでは世界を充分理解することは出来ない。世界は生きていて、生命、愛、美を我々の幸せのために発信している。心の感受性が清められ繊細になるとこうした事がよく感知されるのでいたるところにある生命の躍動を伝え合うことが出来る。レーザーを使っての観察によると樹木は膨張と収縮を毎時間繰り返していることが報告されている。我々と同じように呼吸しているのである。動物だけではなく全ての植物にみられる現象である。このような生命力は花屋の店頭やスーパーの野菜売り場でも感じられる。他の売り場では感じられないことである。 同様に献花のない寺の仏前では生き生きとした生命力が溢れていないのを少しでも感受性の有る人は直ちに感じ取る。多くの仏が蓮華の中に表されているのも偶然のことではない。瞑想の修練を深めて本来の自心を知るためには、大きい光の庭にいるように身体の各部分、上、下、周りに光の花を開花させねばならない。釈迦牟尼仏が菩提樹の下で悟りを開かれた時大きく広がった枝により宇宙の生命との交流が保たれていた。 真言宗ではこの生命力を大日如来(大きな太陽)と言う。宇宙のあらゆる存在はこの光から造られている。原子、分子、細胞を始めとしてありとあらゆる生物が生まれたのである。これほどの美しさと調和ある世界、驚くべき現象には深い感嘆の念を抑えきれない。自然は無心で善であり何の意図もなく全てに必要とするものを与えている。 我々の心に愛が満ちていると、他に幸せを与えることは当たり前になり、思い迷うことなく心のままに世界と調和ある人生を生きることが出来る。 神仏は全ての生命体の内に存在する 地球は宇宙の中でも極めて貴重な存在である。生命体がありこれほどの多種多様の生物のいる天体はまれである。地球上のあらゆる生物は目には見えない輝く叡智の現れであるから大切にされねばならない。世界の発展上これらの生物が様々な分野で働いてきたからこそ人類が出現したのである。 古代社会で、ドリュイドと呼ばれていた司祭は神に祈り自然の中にお告げを探して未来を知ろうとした。神や仏は自然を通して我々を導く。例えば我々の一言と同時に鳥が鳴く、虫が動くなどの些細なことでも宇宙から送られたしるしであるとみなすことが出来る。神や仏の智慧は差別することなく全ての生物に同時に表される。 ある時、神々が仏の慈悲心を試そうとした。鷲に追われた小鳩が仏の衣の袖の隠れたのを追ってきた鷲は家族を養うためにその鳩がないと皆死んでしまうと言った。鳩を渡せないなら同量の肉を出せと要求をした。仏は鳩を秤に載せ切りとった自分の肉を一方に載せて量った、次々といくら大きい肉を載せても同じにならなかった。なぜなら宇宙全体から見ればひとつの生命は他の生命と同等の価値があるからである。 我々は全体的に生命を把握できない、個々別々に存在し対立するものと思い込んでいるからである。輝くエネルギーは様々な形の生命体から同時に発散している。生まれ変わるたびにめぐり逢いひと時を一緒に歩んで行く我々である。仏でも人として生まれる前に幾つもの動物の生を経てきた。仏や聖者たちは大きな慈悲心に目覚め他を救うために自らを犠牲にした功徳を積んで人間に到達したのである。本当の連帯感は人間同士の間に限るものではない、大小の動物や植物等感じる心を持った全ての生物を総括するものである。地球は混沌とした有機物体であり、小さい物が大きい物の生存を可能にしている。全てが仏性のある友と思うと慈悲心を持つのは当然のことである。 宇宙全体が生命の息吹を吸っている。神や仏に絶えず感謝していると目には見えない次元の世界からの光が心に降りてくるので身体中に喜びが満ちて健康になる。光によって身体の閉ざされていた各部分の扉を開きチャクラと言うエネルギーの中心が花のように開花する。世界の全ての生物が幸せであるように平和を念じてこの光を捧げて祈る。 本質的には皆がすでに仏である。他人に悪をする者は未熟な初心者でしかない、自我に囚われて心が固く凝縮しているので人に及ぼした苦しみに気が付かないでいる。不愉快なことをする人、不正をする人に出会っても相手を憎しみ負かすことを望んだりしないで隠されている仏を見出すのが好ましい。そうすれば争いを鎮めることが出来る。或いは我が過去生の悪業を清めるためであったとか、礼儀正しい人間にするために祈って欲しいという仏の頼みであったかもしれない。 子供が欲しいものが得られないと怒ったりわがままを言ったりするからと言って憎むことができようか。大人でも時とすると子供のように振る舞う人がいる。 絶えず他と比べ妬んだり恨んだりしているより互いに助け合うように努めるべきである。一人に施した善行は人類全体を潤す。積んだ功徳はいつかは思いがけなく帰ってくるものだ。 良い波長を発するために心の内に喜びを培う。 宇宙の叡智によって地球上に生命が創造された。創造は休みなく続けられ我々の日常生活にも毎日表わされている。より良く導かれるためには絶えず感謝の念を大きくし心を広げる、仏の世界の喜びを発信する波長と結びつくことである。ラジオを聞くに良い波長に調節するのと同じである。心に満ちた喜びが幸せや善き人たちを引き寄せるようになる。私は動物や樹木と話すのが好きである。彼らは私の言うことが分かるような気がする。こんな優しい友達がいるのは嬉しい。但し、人間と同じように個性があり頑固で気まぐれな時もあるので優しいだけではないこともある。 頭の良い繊細な若い女性が都会に住んでうつ病になったが田舎に移って庭の花や樹木の手入れをしたり家畜に餌をやったりするうちにすっかり回復した例を知っている。都会では灰色のセメントが大地からの生命力を遮断しているように思えたが田舎では自分が花咲くモクレンになったように感じると話していた。自然には愛と美、調和が息づいている。感嘆し感謝の念を持って眺めるとその生命力とつながって力が湧き安らぎと健康がもたらされる。 同様に、日常生活で使う細々とした品物にも仏がおられることに感謝すれば生きる歓びは更に大きくなる。小さい鉢植えの花でも健康になる友となることがある。また敬い信頼し合った人からの贈り物などを感謝の気持ちを持って見る。尊敬する師の書を身近に飾ると、師亡き後もいつまでも敬愛した過去が蘇り幸せだった思いをあらたにする。 例えば、光明院に奉られている本尊不動明王像と両部曼荼羅は私達の求道心と努力に感銘した篤志家と友人の僧たちからの贈り物である。私は長年欲しいと思っていたが人に話したことはなく、聖天様と天の宝を守る虚空像菩薩に祈っていただけである。仏は目に見えない世界から見守り祈る者の願いを適時に実現させられたと思う。また川崎大師から贈られた荘厳の仏具などを見ると、冬に日本に行くたびに大きな山門の前でフランスに寺院建立のために支援をお願いしますと書いた立て札を立てて托鉢をした思い出でが浮かばれる。お大師様の教えをフランス、西洋に伝えるために日本やフランスで人々の暖かい協力を得られたことは今日までも努力を続ける勇気の源になっている。皆さんありがとう。 心と身体を汚し愛の源泉を断つもの 人々は理屈上は他を傷つけるべきではないと言う仏教の掟を知っているが、自分の言う言葉に充分気をつけているとは思えない時がある。黙ること、聞くこと、相手を非難する代わりに理解するべきであることがよく分かっていない。話に夢中になると気をつけることを忘れてしまう。世界中の国々で古くから話す前に充分考慮することを教えている。例えば、フランスでは”話す前に口の中で舌を7回まわせ”日本では”口は禍の門”また古代ギリシャには”一番美味しい料理を注文したら舌が出された。次の日に最もまずいものと言ったら同じ舌の皿を持ってきた。”と言う話がある。乱暴な言葉、罵りで人を傷つけるようなことを言うべきではない。自分では面白いと思っても他にすれば面白いどころか後々までも傷跡を残すことがある。仏教の十善戒の教えにも嘘を言わない、お世辞を言わない、悪口を言わない、騙さないと諌めている。口にした当人ばかりか他にも不調和の根を残す。 紀元前(551)、孔子は避けるべき悪友としておべっか、偽善家、嘘つきの3種を挙げている。これらの人と付き合っていると騙して自分に都合の良いように操るから後の争いの根になる。一方的な味方をしたり苛立ったりしない様に気をつければ心を平静に保つことが出来る。静かで清らかな心は真実の宝物である。どんな人と付き合い何をして時間を過ごすかが幸せを得る決め手になるから我々自身が我々の幸せの責任者であると言って良い。 長年瞑想を続けて修練していると見えない影響にも感じやすくなる。イスラム教の一人の修道女が王宮からの灯油を受け取ったがその日から祈っても神の姿がぼやけるので灯油を返したら心の清らかさと神との継りが元のようになったという話がある。悪意ある人とか心の動揺した人たちからの贈り物は受け取らないほうが良い。 人は内に欲求不満や恨みを沢山抱えている。不健全な読み物や映画の乱暴で残忍な画面を見て強いのは自分であるかのような暗示にかかり、うさはらしをして気を紛らせているが心は汚され固く萎縮する。おまけに乱暴が当然のように慣れてしまう。子供向けの漫画などにもひどく激しい場面が多い。我々は外からの影響を受けやすく、そしてますます巧妙な仕方で操ろうとする現代である。良い影響を探し悪を避けるには注意して正しい判断をするように気をつけなくてはならない。しかし長く考える必要はない、心がすぐに良し悪るし感じるであろう。 日常生活での祈り アレキシー カレルは”本当の祈りは生き様にある、真実の生活は文字道理ひとつの祈りである。”と言っている。私は心から尊敬した師僧たちの日常生活での品位ある立ち居振る舞いにいつも驚かされていた。その動作、言葉、考え方には到達されている内面の和と平静が表れていたのを思い出す。 僧院は自己の抑制のための長い修練の場である。日本の寺では僧たちは毎朝5時に起床、1時間の勤行と瞑想の後、寺の内外を清掃する。庭を掃き床を磨く。年一回秋には綿密な大掃除が行われる。外を清めるは心の内を清めることになるので過去からの悪業や煩悩から解放される。天台宗には、12年間寺にこもって外に出ず清掃と祈りに明け暮れるという厳しい修行があると聞く。我々の内に隠された宝を見出すためには、まず自心を清めるための修行と心を乱す全てを断念する意志と時間とを持たねばならない。 寺院に普通敬虔な雰囲気が漂っているのは仏の世界の光が奉られた仏像に降りるように祈る僧たちの日々の祈りの積み重ねである。清いエネルギーが参拝に来た信者たちの思い、悲しみ、妬み、嫌悪などの暗い感情を洗い流して清める。清いエネルギーを常に水準高く保つためには僧たちの絶え間ない努力が必要とされる。心の内での集中と外部の多くの仕事を両立させ果たしていくのは容易ではない。宗教者として人々の話を聞き、相手の感情的な動揺から身を守りつつ助言をしたり救いを与えたりして対応する。そのためには綿密な規律と時間を守り、空の瞑想をすることによって心を清める。不動明王の前での護摩は業を焼き清めるので、祈っていると心に喜びが生まれ心配事にも耐えやすくなる。皆で一緒に祈ると心から心に喜びが伝わリ各人の喜びと知恵が交流する、祈った後は皆が明るく幸せになるのでグループの祈りは一層効果的である。 大事な会合や試験の前に寺院に行って祈ると障害がなくなり万事順調にいく。仏のおかげをいただくには感謝して御縁を保つことである。感謝の念を心に持つと起きる自分や周りの人々の変化がはっきりと分かり、日常生活の中でも毎日祈り続けたくなる。おかげを授かることに感謝すれば良い。祈りの時間と生活との区別はない、仏はすべての生き物、植物、太陽のみならず日用品にも何処にもおられる。どんな姿形であっても私のためにあることに有難うを言う。このような意識を持つと修行が永続するし、寺を離れるとすぐに怠けるなどという罠に陥ることはない。世間で見る普通の人々の中にも仏の働きが現れているから感謝する、運転手さん有難う、電気屋さん有難う、清掃する人有難う等、、、但し瞑想して祈る修行で進歩した、真言を唱えて才能を伸ばしたと得意になるのは大きな間違いである。真言は門を開けるが光をもたらすのは仏である。その証拠には毎日の修行を怠ると心が固くなり慈悲心を失う。悪魔は自惚れて自分がしたと思う、ところが聖者は神や仏に感謝して謙虚になる。かって尊敬した今は亡き師僧たちのようになりたいと思って、私は心の中で度々呼んで常に感謝している。 般若心経は色即是空、空即是色と教える。我々の実生活も空の表れであるように、他に幸せを与える祈りの人生となるように感謝しよう。世俗を離れ、好奇の目から隠れるように質素に生きて密かに祈り続ける修行者のように生きよう。仏の世界と絶えず交流していると大智が得られる。自分自身のためにはこの世の何も望まず、空に生きて最高の叡智に到達するように努めるだけである。こうして全ての生物のために救いをもたらす。争いがあってもどちらの味方もしない、仏が双方に働いて和が戻ることを祈る。人目に立つことなく慎ましく謙虚であれば自分自身も調和した生き方が出来る。 世界を変える 世界の政治家たちは世の中を対立したものとしか見ないから戦争をする。他国の資源を奪い自国の富を蓄えて競争し統治しようとする。自分の国を愛するからと言って他の人々の生命を犠牲にすることを正当化することは出来ない。善意は知恵や意志によって決まるものではない。本当の善人は人々と心と心で継り、広い心を持つから善意ある行為をするのが当然のようになる。金持ちだけの学校で教育を受けた人は貧乏人に優しくしようと思っても優越感を隠せない。軽蔑心が植え付けられているからである。たとえ親切にしても選挙に有利なためとかなどの計算ずくである。 16世紀のフランスの聖者、サン ヴァンサン ド ポールはパリの路上で餓えた貧しい人々の世話をするために金持ちに寄付を頼んで歩いた。時として食事に招かれることもあったが、いつも遅れてきた。なぜなら通りで物乞いをして得たパンを持ってくるためであった。彼は金持ちが貧しい人たちのパンを分け合うことによって連帯感を持つことを望んだのである。心を広げるとは謙虚になって世の不幸な人々と身近になって自分の家族同様に思うことである。これが大慈悲、限りなく大きい慈悲心である。 キリスト教の修道院の夕方の祈りに”神は世界を操る権力者たちを投げ捨て、貧しい人たちを天に引き上げ、金持ちたちを手ぶらで追い返す。”というのがある。 世の偉大な宗教の指導者達、釈迦牟尼仏、キリスト、後の弘法大師の人柄と行為に表された善意は世を輝かし世界の歴史を変えてきた。。その教えは現在に至るまで広く我々の導きとなっている。我々も世界を変えたいと思うなら、まず自分自身がより良く変わらねばならない。我々の内に積んだ精神修養が振るまいや話し方優しい繊細な心となって外に表されねばならない。日常の生活の中で誰もが仏とならねばならない。善意に満ちた思いが人の心を少しずつ変える。心明るく優しく保つために何人も何物も嫌うべきではないが時としてそれが難しいのはよく分かっている。 心穏やかに平静を保つためには全てが無常であることを認めなくてはならない。いつかは消える身であり物であるからである。原住民の言葉に”我々は皆がこの場のこの時の訪問者である。通過するだけだ。その間の目的はよく見て覚えて大きくなり愛することである。それから家に帰るのだ。”とある。我々の地球での通過は生命の一体感を発展させ広げるためである。これは仏の特性のひとつである。 エゴ(自我)からの解放 授かった全てに感謝の念をいだき慈悲心を育てる、人生哲学の基盤でありエゴの砦から解放される法である。自分で生きているのではなく他によって生かされているのである。父母の恩、国の恩、衆生の恩、三宝(仏法僧)の恩の四恩に感謝して祈ると心が広くなるので周りの出来事もよく理解できる。こうして悟りに至ることが出来るようになる。                ”生けるもの全てが我四恩である”弘法大師、十住心論より

宇宙と一体になる道

  宇宙と一体になる道       フランス光明院主 融快           <最大の敵はエゴ(我)である>             ダニエル ビヨー                                        訳者 融仙 コロナ禍での一年間、外出自粛など様々な制限の下で在宅生活を余儀なくされた。都会で狭いマンシヨンに一家で暮らすのは容易ではない。家族の間で衝突や口論が起きることは避けられないし、青少年の間に極度の鬱状態に陥った例が幾つも報告されている。我々は自由でないと息が出来ない、くつろげない、自己の生在感を意識して幸せに生きるためにも他の人々を必要とする。 しかし、修行に励む僧たちは閉じこもりの生活をし、時には一生隠遁生活送る僧もいる。孤独の内に悟りを開いてより大きい喜びを体験するためである。この相違は何処から来るのであろうか? 前者は、都会の喧騒の中で感情的な高揚を求める、さもないと生きられないように思っている。後者は、孤独と静寂の中で仏とのふれあいを深めて内の感受性を大きくすることを目指す。 仏教の教えの第一は苦しみは全てが避けられない無常によるという真実である。しかしながら宇宙の生命力は我々一人一人の生命に宿っているので日常生活の楽しみや欲望なしには生きられない。欲望には俗世で自身の外に楽しみを探すと、内なる人間性の本質を知ろうとする出世間の欲望とがある。前者は人や物とへの愛着が生じ執着することから苦悩の源になる。後者は自己のエゴが生み出す世界の幻覺から開放されて心清く静まり安らかさを得ようとする。生命は存続のために動物的情愛を必要とするがそれに伴う苦しみから真の安らぎを得るにはこの世の原始的動物的見地を超えねばならないのはあきらかである。問題は瞑想や祈りによって内的成長をなし遂げるには、時間、静寂、集中力を得るためにこの世の幾つかの楽しみを断念せねばならないことである。こうした人生の進路の選択には大きな勇気と決意が必要である。精神修養の道は心を開花させ真の幸せをもたらす。 キリスト教徒は永遠の生に生まれ変わると言い、ヒンズウ教徒は二度生まれると言っている。つまり瞑想によって内的視野が広まり我々の生きているこの世と同時に異なる次元の世界を知ることが出来ることをいう。人生観が全く変わってくるのでこの世で幸せに生きるためにも大いに役に立つ。 慈悲心が目覚めると人と人との結びつきを知り、限りなく多い各エゴの裏にある一体性が分かるようになる。自分にも自信がつき他の人々とも和を持って生きることが出来る。 そのための精神修行を実践し進歩するためにはまず信仰心を持つことである。 神と仏の存在についての考察 宗教の歴史を見ると、人類の進化の段階に伴い世界を知り理解する仕方が変わるので同時に神の概念が変わってきている。現在の科学者たちは世界の創造は138億年前に遡るビッグ、バンによるという。巨大な黒い穴に凝縮した光の大爆発である。数秒の間に素粒子、続いて水素、ヘリウムの原子核が生み出されて現在の宇宙が構成された。太陽に近い虚空の何処かに灼熱の球体が生まれ、後に地球となった。地球に生命が現れたのは今から63億年前である。はじめは水中の単細胞であったが幾多の種類に分化し増殖するにつれて感覚と知識が発達した。科学のみで理解しようとする人たちはこの創造を偶然としか考えない。全体を築き見守った偉大な建築者の存在を知らない。多種多様な生命体は輝くエネルギーのもとで完全なる和を持って世界中に生まれたのである。しかし、隕石の落下や火山の噴火によって生物の絶滅は何度も繰り返された。 その後人類が出現し、世界の動きを知ろう、有利に利用しようとするようになった。自然現象を説明するに、太陽、水、風などの多くを神々として敬い食べ物や動物等の供えた。戦争の勝利のために人身の生贄をすることもあった。 インドでは、創造神ブラフマ、生命を保持するインドラ、破壊神シバの主なる3神が祀られている。キリスト教では唯一最高の神が7日で世界を創造したと信じた。人間はその最上位にあって動物は全て人間に仕え食料となるだけの存在であるとした。神は悪人を懲らしめ善人つまり信者に報酬を与えるという。その世界観は実存的であって魂の本質を心理的に説明することはないが、聖霊が存在するという信仰は仏教の瞑想によって到達する空の概念に共通する。 仏教は他の宗教と異なり、全ての生物は同一の仏性を備えているという平等性の見地に基づいている。創造に働いた輝く叡智は神、仏といい大日如来と呼ばれて、全ての生物の心の中に存在している。物体にも同じ光から生まれた原子から作られている故に存在すると言う。すべてを同一の愛に包み込む、差別や優先することのないシステムである。真言宗では世界は仏の身体、音は仏の言葉、大きな叡智は衆生の思いに表れているとみなされている。全ての人間は持っているのに見ることも意識することもない仏の叡智に気が付かないでいる。だから助け合う代わりに対立しあうことが絶えない。 始めは残忍で厳しい世界に一人で直面していると思って生存の危険や不安から身を守ろうと思いのままに無謀に振る舞うが、激しい苦痛とか立派な人との出会いから信仰心が芽生えることがある。不条理に思える世界で途方に暮れていた人間も祈るようになる。 ドストエフスキイの小説”カラマーゾフの兄弟”に神父が極悪人の前に跪いて祈る場面がある。周りの人たちは神父が盲目になったかと驚くが、神父は”間もなくこの男の上に降りかかる罪の贖罪の苦しみと懺悔してこれまでの生き方の過ちに気がつくように祈った。”と説明した。神仏の存在を知る第一歩は懺悔することである。心を清めて煩悩をしずめることによって感受性をよみがえさせるために心から祈る。 神経生理学者によると、心臓には動植物の生命のエネルギーを直ちに感じ取る鏡の細胞と言われる細胞があるという。心は言葉や理屈がなくても光のように放射して知りたいものと一体になる、距離の離れや大きさは問題ではない。このような知覚は深い瞑想の際にも起きる現象である。互いが深層意識によってつながっているからである。例えば、愛すると相手の感情は直ぐに感じられるから偽ることは出来ない。キリスト教の新約聖書には”心の清いものは幸せである。神を見るから”とある。 弘法大師の十住心論には心の清められるに従って発展する10段階が説かれている。 毎日仏と法の教えと僧に帰依して調和ある身口意になるように祈っていると心身が落ち着きやさしく穏やかな人間になるので日常生活にもより良く導かれるし、思いがけない神秘な出来事により現実問題が予想外に発展して解決することがある。   ある時、高野山で仮設の小さな小屋の前の庭を耕していた老人を見た。庭の話を少しする内に親しくなりフランスに寺を作っていると言うと、八祖画像を描こうと申し出された。老人は著名な仏画師で高野山に来て大塔の壁画、金剛峯寺の仏画などを描かれていた菊池先生であった。フランス光明院はこうした思いがけない出会いや信者たちからの親切な申し出でほとんどが整われている。 仏は、世界を生きた生命体のように加護している。こうした出会いを与え、功徳のあるなしで罰したり褒めたりしない、原始から人間の心に宿る生命の力である。普通の人たちは苦しみ喜びは偶然と思うが、信仰心のある人は仏が俗世の幻惑から我々を開放する智慧を授けることを知っている。 いつか日本で、若い女性が神道の祈りをして母なる太洋に感謝するビデオを見た。彼女は福島の津波で家族を失ったにもかかわらず感謝して祈っていた。苦しみはエゴを動揺させるが魂を目覚めさせる。  エゴの構成の仕組み エゴとは、意識しなくとも内に残された数々の思い、漠然とした感情、自尊心や見栄から表面をつくろう習慣などが混じり合って成り立ったものである。我々は生まれて以来の蓄積した思考によって自分で築き上げた確信の上に生きている。厳しいしつけや教育によって植え付けられたり、逆に放置されたりした体験のたびごとに浮かんだ思いも加わっている。自分の信じる世界観と行為に基づいて構成された人間性によって日常生活での選択や人生の進路を決めたり他人に対している。エゴの外殻には長い間の様々な感情が積み重ねられ混じり合っているので、突然何の理由もなしに気分が変ったり、自分をとりまく雰囲気を明るくしたり、暗くしたり、固くしたりする等変えるのを周りの人たちはそれを直ぐに感じ取る。その上日常の思いや心配事が絶えず周りに渦巻いている。ラジオの音波が世界中を巡っているように、思いは遠くまで発信されている。それに答える他の人たちの思いが帰ってくるのでまた新たな感情を刺激する等の繰り返しで際限がなくなる。幾多のメデイアが発信する情報や宣伝が我々の意識を汚染している。実際に政治問題とか隣人同士の争いなど我々の心の内の仏性を目覚めさせるための精神修行と関係のないことである。幻惑でしかない。 都会の喧騒にはあまりにも貪欲、怒りの思いが多く激しく混じっていて重苦しい、そこを離れて田舎で静かに暮らしたほうが容易に自身の本性を知ることが出来るであろう。 中国の聖者孔子の言葉に”生きるはひとつの術である””山のように固く水のようにしなやかに”と言う。私はこれを道徳を固く守り柔軟性を持って安らかに生きることを意味すると思っている。 日本である日、95歳の老婦人に何を人生に期待するかと尋ねたら水面を静かに眺めているきれいな鯉の絵を見せた。くよくよせずなるがままに生きると言う。健康に幸せに長生きをするにはずっと先までの計画をたてないが良い、何かを成し遂げたいと思うだけで緊張感が生まれる。失望や動揺があろうと一日一日を丁寧に生きる。 エゴのなす働きとその影響 エゴと欲望を捨てきるのは容易なことではない。我々の内にある生命力は様々な手段で欲望をを満たすように絶えず要求する。”もっと欲しい、もっと多く欲しい”は動き回っていないと死ぬかのように恐れるエゴの策略である。自分の欲望を満たすことが成功した証であると思うのは間違いである。人はメデイアの宣伝に操られているが欲望の多くは無駄なことであるを知るには全部試す必要はない。他人の目を気にする上面だけの生き方は虚栄心を大きくし、おもちゃを欲しがる子供と一緒である。 心理学では深層意識に跡を残すおもな人生体験として拒絶、放棄、貶め、裏切り、不正をあげている。エゴはこうして傷ついた体験を繰り返さないために型にはまった行動を取るようにしむけるが深層意識に押し込め隠された苦しみが取り除かれないでいると正常な社会的行動は不可能である。恐れ、恥、怒りが加わり未成熟な人間のままでいるので他の人々を理解したり、悪人をすばやく見分けて身を守ることが出来ない。子供の時に両親の乱暴に苦しんだことから生涯をとおして同様に乱暴な振る舞いをするひとがいる、愛することを知らないからである。愛するとは心を開き優しく話すことである。エゴは自分の存在感を認めるために必要であるが、集団の中で他と一緒に、敬意を持って生きることも大切である。孔子は”人に生まれるのではなく、人になるのである”。と言って礼儀と敬意は社会人として世の中に和を保つために大切であると説いている。世間は自己統制が出来るかを試す良い試練の場である。人々のために献身する宗教者たちは時々一人になって祈って力を蓄える必要をよく言う。心の手入れをしないと安らぎを保つことは不可能であるからである。意識するしないとにかかわらず欲求不満や不安が昂じると挑戦的になるエゴは目的の達成のためにいろいろな策略を用いる。 インドに伝えられている神話に、絶えず変わる欲望との戦いを例えた戦争の女神ドウルガと悪魔の王アヒサアスラとの戦いの話がある。虎に乗った女神を悪魔はまず水牛になって襲う、次にライオンになるが殺され、高まる欲望のままに剣を持った人間となりさらに女神の首を長い鼻で締め付ける象になって抵抗する。その時女神が舌を出すと悪魔は半分水牛半分象になってついに最終的に殺された。これらの動物はよくある人間の奥に隠された動物的本能、欠点を象徴しており乱暴、自尊心、操る、虚偽、頑固な片意地である。 人間は誰でも心の奥に有る寛大な利他の思いを現す時がより美しく魅惑的である。自分しか考えない時は心が狭く怒りっぽいのですぐ顔に現われる。 エゴを制御するには 修行する僧侶たちは自身の思考と物質主義に陥れる誘惑との戦いに努める。禅宗では心の内の感情的反応を冷静に観察することを水牛を手懐けるといっている。師僧は突然弟子に”どこからきた?” ”どこへいく?”と問いかける。混乱するか物事の外見への執着心を捨てたかを試すためである。直ぐに良い答えをすれば正しい修行の道を進んでいる、実際に今を生きていることを示している。正しい返事は”どこからも””ここです”といって、統制された心には距離も方向もないことを意味する。毎日小さくともなにか楽しみを断念する習慣を持って快楽生活に陥らないように耐えず自身で制御することは良い修行のひとつである 長年の間厳しい質素な生活をして貧しい人たちの世話に献身してきたある修道女が店頭に展示されていたミンクのオーバーを見て欲しくて5分間も動けなかったと自叙伝に書いてあった。或いは高級車に憧れる人もあるかも知れない。しかし禁欲によって内の力が増すが、厳しすぎると苦しみや欲求不満が生まれるので極端に走らないことである。修行によって精神的認識と動物的本能との隔離が生ずる。目的に達する前に内の成熟の度合いが試され試練や誘惑が往々にある。自信を持ちすぎると罠にかかる危険があるから常に導きを受けるべきである。 仏にすがり導かれて生きると大人になれる、祈りが心の奥に隠された苦しみを少しずつ溶かしてゆくので、自分を苦しめた意地悪さの裏に隠された相手の苦しみが察しられ許すことが出来るようになる。こうした重荷から開放されると自信がつき他人の思惑にとらわれることがない、安心して人々を愛することが出来る。一人ぼっちではない、思いやりある暖かい大きな慈愛に包まれていることを感じる。ユーモアが有ると時々自分で自分を笑って本気になりすぎることを避けられるし、世間的地位や外に与えるイメージに縛られなくてすむ。心の落ち着きを取り戻すにはゆっくりと深い深呼吸をする、仏の加護を頼んで深呼吸を繰り返すことである。 学校で子供たちに少し心理学を教えると良い。様々な人間の性格の違いを知れば他人とのより賢明な交流が出来るようになるであろう。 エゴの多様性と一体性 池の表面に風が吹くとさざ波がたつ、無数の小さいさざ波が無数の月を映し出しているのを、煩悩の風に無数の小さいエゴが競い合っているに例えることができる。各人がより良くなることを目指ざせば競争心が高まり刺激し合って互いに努力をするようになる。その中に専制的な人、自分しか考えない人、他人の思いを無視する人が現われると、エゴイスムや嫉妬心で全体に不調和が生まれ一緒にいる楽しみが失われる。池の上の風が静まると波が消えて静かな水面いっぱいに澄みきった大きい月が輝いて映る。共通の目的を持った和のあるグループでは、各人が自由に意見を出し合ってそれぞれ異なった見解を学び豊かに成長する。知らずにいた新しい才能が目覚めることもある。 人生の目的は偶然の出会いにもいろいろな面での交流を行って成長することである。我々は生まれて以来多くの愛と細やかな心使いを受けて育てられてきた。両親や世話をしてくれた人々を感謝の念で思うと優しさ、喜び、謙虚が大きくなり、一人ではないとの確信が持てるようになる。 生命は戦いや争いによって発展したのではなく様々な種類の協力によって共存成長してきたのである。 例えば、我々が食べ物を消化するも腸内にいる1キロ半のバクテリーの働きである。大きな樹木も根本の微小なバクテリー群の働きなしでは生命を保たれない。地上の哺乳類は海中で炭酸ガスを酸素に変える珪藻類のおかげで生きている。地球上の生命の保持のためにあらゆる種類の生き物が協力しあっているという真実を知ると謙虚になってどんな小さい生き物も助けようとする心が生じる。我々は弱くもろい、気候変化や将来危ぶまれている他の変動を生き延びるためには周りの自然環境を大切にし、各人が日常生活においても心すべきである。 私の体験では、苦しんでいる小さい虫や生き物に優しくすると後になって良いことが起きる。生命はひとつである。小さい生き物の苦しみを除くことは私自信の苦しみを除くになる。人生は人間性を大きくする協調の場である。時とすると敵は抵抗したり反論することや身を隠すことを学ばせる友と言える。単純素朴な人、乞食の言葉にも思いがけない賢明さが見られることがある。何人も軽蔑すべきではない。 日本にいた時、東京、京都、奈良などの街角で、四国でも托鉢をして歩いた。托鉢は他への思いやり謙虚を養う修行のひとつである。通る人たち鉢にコインを入れた人たちのために一心に祈るのは気持ちがいい。日本人と日本の風習について大いに学ばされた。 仏教では3段階の修行の仕方を言う。自分のために祈る、自分と周りの人のために祈る、最後に他の人々のためだけに祈る、自己を忘れ自身の悟りを求めることさえ考えないで一心に祈るのが最上である。祈りはエゴや感情を清めて心を広げ菩提心、慈悲の心を目覚めさせ、私利私欲を超えた愛に至る。生命は一体であると実感する智慧が湧いてくる。他の必要とするところを知り、敬意を持って応じると人々は安心し、友情、愛は一層大きくなる。功徳を全ての生物に捧げ、利他の心を地上の全ての生物に広げ幸せをもたらそうとする菩薩になって心の光を世界中に広げる。こうして世界全体の深層意識に働くことが出来るのである。 ある島で象の生態を研究していた科学者が草を食べては病気になっていた象の群れの一頭の象が草を洗って食べることをして回復した。それを真似た他の象たちも洗って食べるようになったので皆回復したことを見た。彼は離れた別の島の象も観察していたが洗って食べて回復していることを知り、遠く離れていても象たちは深層意識で情報を交換しあっていたことを発見した。 人間も同様にそれぞれが遠く離れていても、夜間身体の上にただよう目に見えない光によって夢やテレパシーで情報のやり取りをしている。我々は心で一体である。世に満ちる煩悩をしずめるように祈り助け合うことが出来る。例えば、きれいな花を見て孤独の人たちの心が和らぐように祈り仏に捧げるのも良い。 心の本性 自分はよく知っていると思って自分の考えに固執する危険が往々にしてある。初心を忘れずにいたいものである。実に多くの幻覚を消していかねばならないのが現実である。我々の世界観や修行についての理解の仕方は心と頭上”ウシュニシャ”の発達の度合いによって異なっている。菩提心をもってこの世の人々の幸せのために慈悲の心を目覚まし、空の瞑想によって無知や執着の最後の雲を払う。真の宗教者は無差別の菩提心を持って空の瞑想をする。修行の最終目的は無我に達することである。菩提心とは、大日経に”この世の全ての幻惑から開放する全知を与えるが知識や理解の対象になるものではない、なぜならその本性は言い表すことの出来ない空と同じであって、絶対的清らかさのゆえに特定した概念はなく不動、不分化、不変、不滅である。全ての生物の内に有る心の中に仏の全知の心が溶け込んでいる。”と説かれている。 真実の智慧は概念を比較検討する知能の知的展開ではなく、慈悲に満ちた愛が全ての言葉やイメージを溶かして特定した概念もない、はてしない輝く光の大海に入ることである。学んだり探求の対象になるものではない、思考は言葉によってなされるから限度がある故に真実の智慧に至ることが不可能である。光があらゆる存在の根源であり我々の意識も消えて空に溶け込む。なにかに達し実現することも実現する人もいない。自身の心の本性を知ると、見捨てられる、孤独、死などの恐れをしずめ、自分の存在価値を認め誇示したいという執拗な欲望から解放されるので最大の幻惑が消えて業と輪廻転生の繰り返しを断ち切ることが出来る。 仏教は欲望と執着が我々が個々別々に存在しているという幻覚をつくる基であり、なるがままに生きて現実のこの世や人々を顧みないこと説く。 マルセルプルーストの大河小説”失われた時を求めて”に繊細で可愛がられた子供時代、舞踏会や美しい女性たちと過ごした良き時代、華やかな上流階級を懐かしく思い出されている。すべてが幸福になるために欠かされない大切なことに思われていた。しかし時は過ぎて全てが枯れしぼんで消えていった。素晴らしく見えるが儚いことと肝要な物事との違いを知っておかねばならない。そうすれば精神的成長への多くの障害を避けることが出来る。深く瞑想に集中して自己を忘れると心の空なる本性を知ることが出来る。…

慈悲心の目覚め

慈悲心の目覚め (発菩提心) フランス光明院主 融快ダニエル ビヨー 訳者 融仙 2020年は伝染病 COVID19が世界中に広まり甚大な被害を及ぼしている。フランスでも 不意を打たれた医療従事者たちは極めて困難な事態に直面し、身を守るためのマスクや防護服 は国内での調達が不可能で有様であった。なぜなら医療具の殆どが中国で製造されていて、そ れらの中国製品はUSAへの供給を優先としていたからである。にもかかわらず、病人を治療し て苦しみや孤独から救おうと熱意に燃えた医者、看護師、介護の人々は、自分自身や家族への 危険をかえりみず日夜献身し続けた。なかには病に倒れた人々、命を落とした人々も多くあっ た。世界各地で献身的に貢献された人々、犠牲者たちの勇気に心からの敬意と感謝を込めて祈 りを捧げたい。 こうした惨事を見て多くの人々は経済のグローバル化と国家間の相互依存のありかたに強い疑 問を持つようになった。 フランス共和国のモットーは”自由、平等、友愛”である。国民が暮らしやすく強い安定した国 となるための正義ある社会を築くために掲げる理想である。 慈悲は他人の苦しみに心打たれると自ずから生まれる感情である。人間のみならず全ての生き 物へ愛と優しさ、好意をすすんで育てるようにすると慈悲心は一層大きくなる。弘法大師のお 言葉に”この世の縁なき生きとし生けるもの一切を見るに、あたかもおのれの身体を見るように 見る。善き人の用心は他を先にし、おのれを後にするからである。”とある。 緑色をした小さい毛虫の話 ある朝、入り口の扉を開けると緑色の毛虫が私の方に向かって来るのを見た。”緑は悟りの色、 幻惑のベールを脱いで我見を捨てると真実が見える。”と歌いながら無数の手足を動かしてやっ てくる。 一体何を言おうとするのか不審に思って毛虫に声をかけた。”遠い国から来た君は何を求めてい るの?”私はきっぱりとした声で言ったつもりであったが、内心は多少不安であった。 ”悟りを探している。でもこっちに美味しそうな若葉の香りがしたので腹を満たそうと思っ た。” ”悟りと食べ物とどっちが欲しいのか?君は毛虫にしてはかなり肥っているからそろそろ繭を作 ることを考えるべきだ。食べ物は悟りにはならないが、悟りに到達する助けにはなるだろう。 確かに安心して静かに生きられるのが何よりだが目的は蝶になることだろう。””蝶って 何?””君の身体が今と違ったものに変わること。そうすれば全く違った世界が見える。遠いと ころ、深いところ、君がこれまで知らなかった沢山の生き物が見えるようになる。それが君に とって生きる目的だ。このまま成長していきなさい。今の君にもそれなりの価値がある、君は もっと成長するだろう。阿字はあらゆる真言の根源だ、心に”あ”を繰り返して唱えなさい。真 実を探す君よ、体に気をつけて、さようなら。”この勇敢な毛虫をそっとつまんで植木の間に咲 いていた花の上に静かにのせた。 現実の存在について その夜、いつものように、眠る前にその日の私の言葉と行動を思い出して反省した。小さい毛 虫に分かりやすく教えたであろうか。彼の信念と清純さには心打たれるものがあった。”空”に ついて説明するべきであったかもしれないが、要点だけ言って気を散らさせるのを避けたつも りだった。心に白い月輪を思い浮かべて瞑想することを教えてもよかったが、毛虫はどこに心 があるのだろう。人間が見るように月は丸く清らかに見えないかもしれない。我々とは違う感 覚、例えば嗅覚が鋭く発達しているであろうし、脳の構造が違うので見方が違う。むしろ我々 が現実と思っているのが相対的な世界観でしかない。全ての生き物はそれぞれの脳の発達如何 によって物事を自分なりに把握し理解している。 仏教では唯識論がこの世の全てが意識のみからなっている、現実というものの実在はないと言 う。人間は必要に応じて物事を言葉で言い表す、用いられる言葉は人間が理解できて生存に欠 かせない物事の為に造られたものである。美しいとか魅されるか否かを感じ取るのは心であ る。 もっと科学的に世界を知ろうとするにはより一層客観的に観察せねばならないであろう。…