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青木融光大僧正30回忌に想う

安らぎの心           青木融光大僧正30回忌に想う 仏像に見る釈迦牟尼仏のお顔の微笑みには平静な安らぎと深い知慧がうかがわれる。人間は誰もが病と老と死をまぬがれないと知った青年は、王国と妻と子供を捨て、森林に隠退し、厳しい修行を重ねて瞑想にふけった。そして、ついに苦しみから解脱するにいたった。 何を見出したからであろうか?宇宙は一体であることを悟ったのである。 三世常恒に宇宙法界を照らし給う大日如来である。凡聖を貫き十方に普く自他一如の真心である。白浄の蓮華の如く円明の月輪の如く 物と対立する心でなく 所謂物心不二の霊体である。                   青木融光大僧正 大日如来の信仰 我々のある立場によって、同じ出来事でも人によっては天国に見えたり地獄になる場合がある。ある日、日本で料亭に招かれた時、生きたエビが入ったガラスの器がテーブルに運ばれ酒が注がれた。エビ達は苦しんで器の中で飛び跳ねていた。給仕の女性は、気にもせずあたり前のように見ていた。私はかわいそうでたまらなくて、器の上に手をかざして光明真言を繰り返しとなえて、エビ達の臨終を助け天国に生まれ変われるように祈った。勿論、その後では誰もエビを食べようと手を出す会席者はいなかった。会食をお葬式に変えた私は他の人たちの楽しみを壊してしまったが、エビ達は死ぬ前に美しい光が降りてきたのを見たかもしれない。私は料亭の地獄に現れた菩薩になったような気がした。どうして無関心でいられようか?今でも私の行ないは、苦しんでいるものを助けねばならない仏教徒として正しかったと思っている。これは、仏の国から送られた私に慈悲心と生命の一体感が本当にあるかを試すテストであったと思っている。フランスにも、生きたままの鱒を熱湯でゆでるなどの残酷な料理があるが、いくらなんでも客の目の前のテーブルの上で熱湯に投げ込むことはしない。 大日如来は宇宙の生命である。祈ることは、すべての動物植物、生き物の生命と同調し一体となることである。仏教を心底から実践すると、真実の仏は、人間に似た美しい仏像だけでなく、いたるところにあり、目に見えても見えなくてもあらゆるものにある宇宙の生命力であることが分かる。仏教には他を思う人間の生き方を教える十善戒の教えがある。仏教でいう慈悲は人間のためだけに限らず、世の社会全体、自然全体に及ぶものである。 冬になると、私は野生の小鳥達にえさをやる。また、お供え物を食い荒らしに入ってくるネズミがいるので、罠を仕掛けざるを得ないが(生け捕りに出来る大きい罠)捕らえると森に放すまで真言をとなえながら歩いてネズミのために祈る。こうして自然の中の大日如来への供養とする。子供の頃にした魚釣りや遊びで生き物を殺した悪業から私の心は清められてゆく思いがする。宇宙は善であり叡智を持つ、生命を生み出す。戦争、地震、津波等、いかなる苦しみや不幸が身に降りかかろうとも信じることである。仏法僧の三宝に帰依すると自然のあらゆる物に現れたこの大きな叡智につながることが出来る。植物は生命の根源であり、その存在は人の心を安らぎ落着かせ、花の美しさは心を和らげる。動物は、我々と同じ生命と感受性を持つ生き物である。愛しあったり、争そったり、やさしく子供を育てる。自然の生命力は動物達の中により生き生きと現れている。人間は、あまりにも知的で傲慢になりすぎて感受性が薄れ、生命の根を失ってしまった。よりよい人間となり仏と一体になることを願うなら、母なる自然をもっと大切にして、与えられている自然の恵みに感謝せねばならない。パソコンの画面から遠ざかり精神が静まるといろいろなことが感じられるようになる。森の中の生命、岩の力、古い大木の語る物語りなどに心打たれるであろう。こうして宇宙の大生命と一体になることができると自分自身の生命が活性化される。知恵だけを発達させて、自分は独立した強い人間だと思っていても、実際には何も分かっていないのである。 感謝の心 ; 思いがけない大きな出来事は記憶に残るが、多くは普通に過ぎたり、時には退屈に思える毎日を送っている。順調にいった物事、汽車に乗り時間に着いたなど、あまり当たり前のことなので、喜んだり感謝したりするに足りないと思っている。どんなにたくさんの人々の努力の賜物であり大きな恩恵を受けているかに気がつかないでいるからである。おいしい食べ物を作ったり、旅行者に安全で快適な旅を保障するためには多くの努力がいる。毎日食べられることを当然のように思っているが、世界中に飢えで苦しむ人々、子供を健康に育てるために欠かせない物、飲み水も充分にない人々もある。日々の暮らしのうちに喜びと幸せを感じるためには、普通に使っているがもし無くなるとひどく困る小さい物でも、実は大変貴重である物がたくさんあることをことを知る習慣をつけることである。誰かが、<幸せが私から去った時まで、私は幸せであったことを知らなかった。>といった。時として、何か大切なものを失うこと、病気、死などは我々に生命がいかに大切であるかを分からせるために必要なのかもしれない。幸せは自分が持っているものの価値を認識することから生まれる。ドイツの哲学者、ショウペンハウワー(1788~1860)は<幸福論>のなかで、<今自分が所有するものを奪われたかのような目で見る。>と助言している。 感謝は、まず身近な人々あるいは未知の多くの人々が我々の幸福のために毎日力を尽くしている広く長いつながりを思い、敬意と愛の気持ちを持つことから生まれる。時々それが恵まれた贈り物であったと見直すと、また改めて喜びを感じることが出来る。さらに他の人々に喜びを分かち合いたいと願えば、幸せは大きくなる。丁度ろうそくの光を他のろうそくにつけるとますます明るくなるように、慈悲や愛情をこめた思いは、家族のつながりを深めるだけでなく、遠くまで広まり人類全体に及ぼされる。仏教では功徳を回向して世のすべての衆生と平和のために祈るが、回向の力が慈悲心をいっそう大きくする。 私は中国製の古い上着を長年愛用しているが、時々これを作った人達のことを思う。どんな人達であったであろうか?生活に充分な給料をもらっているであろうか?そして、世界中の搾取され働く人達のために真言をとなえて祈る。他の人々の幸せを思うことによって我々自身の心が開け、光が入って寛大になれる、連帯感が生まれる、すべての人類の働きに参加するから、自分にもさらに幸せを感じる。友情は心を開き幸せにするに反して不幸は自分に閉じこもるることである。不平不満の源だと思う数多い物事をを反芻し続けることである。幸福は、いわば生きる上での技術で得られるものであるから、これを覚えて毎日実践すればよい。フランスの哲学者、モンテーニュ(1533~1592)は<私は腹の立つことは考えない、心配事はくよくよしないで、日々の小さい楽しみを喜ぶ。>と言っている。 故松本管長は、<喜びは幸せを呼ぶ。>とよく言われていた。喜ぶ心の波動は、楽器の音のように伝わってあらゆるチャンスと幸福の源泉と一体になることができる。我々は心臓の鼓動や消化する胃の働きを意識しないが生きるためには最も大事なことであると同様に、喜びが精神的呼吸を助けるので、常に心に喜びを保つことが大切である。 真言宗の実践の1つ、金剛薩垂の真言をとなえて祈ると智慧と愛の水が注がれ身体中に浸透して悪い思いや暗い感情を清め、正しい直感が与えられ導かれることが分かるようになり未来を信じることが出来る。不安がしずまり身体も健康になる。喜びが内に満ちると周囲にも感じられるから明るい肯定的な人々が寄ってくる、時には救いを求める人もくる。 感謝の心はエゴイスムの狭い殻から抜け出させる。弘法大師の四恩の教えのように、仏にありがとう、師にありがとう、親にありがとう、国に感謝し 生命を与え、人のために尽くすように導いて下さったことに感謝をする。心に他の人々を、それが悪人であっても、多く抱けば抱くほど、自己中心の心から開放され空の世界に広がる。そして、安らぎを得て世界のために尽くそうと心構えが出来る。心は一層大きく広く輝くようになる。 心の毒になるもの 幸不幸は偶然によって起こるものではなく、習慣となっている我々のあり方や考え方の結果である。自分で自分の不幸を作っている人が多くいる。暗い否定的な考えを繰り返し反芻したり、恨んだり、復習しようと人を傷つけたり、自分の欲求不満から人に当り散らす。仲間同士のからかいも、自分の思い通りにならならない事柄への怒りが隠されていることがある。不平不満の苛立ちを身近のもの、弱いものにぶつける。自分自身を知ることなくして、こうした心をコントロールできようか?とりとめのない言葉やいじわるは、長い間に不調和の雰囲気となって周りを包む。すべてがうまく行かない、世の中は不公平だと愚 痴を言うが、自分で作り出した不調和の中で幸せになりたいと欲しても不可能なことである。だから仏教で教える<十善戒>を守る生き方を実践して、他をいため傷つけないことは幸福を得るためになすべき最小限である。 私の師僧、青木融光大僧正は、怒り、恨み、ねたみ、慳貪などの心の毒を退けることが大切であると特に重視されていた。こうしたすべての心におこる反応は、自分と他を区別して不満足や恐れを抱く我々の脳の原始的な働きの現れである。本能的に自分を守ろうして他を否定するが、結果は視野を狭くし自己に閉じこもることになる。仏とのつながりを忘れ、宇宙の生命力から切り離される。菩提心を目覚めさせ思いやりを持ち信じて祈れ ばすべての問題は時とともに消えていく。世間の心配事にもクヨクヨしないでいれば、悪いようにはならないものである。 浮かぶ思いや考えを監視する 幸せに輝く人もいるし、まるきり反対の人もいる。その違いは常日頃心にどんな思いを浮かべ考えているかからくる。それらがオーラ(ひかり)となって発光されているからである。昔からなにげなく言っているように、悲しみを<心が重い、締めつけられるようだ、目の前が真っ黒になる、灰色の人生、>などと感覚的に質感や色によって表現する。また喜びは、<輝く、暖かい、黄色、金色、軽い、飛び立つ気持ち、もも色の人生>などと言う。思いや考えはラジオの音波のように伝播するので、それらが繰り返され続けると積もって、世間で言う流行になったり、暴動のような集団行動になって現れる。全てが思いや考えから始まっている。善にしろ悪にしろ業(カルマ)となって積もり機が熟して具体化するのを待つのである。だから、知らず知らずに犯す過ちを避けるためにも、絶えず心に浮かぶ思いや考えを見つめてコントロールすることが非常に大切である。それは自分のうちから起こるのではなく外から来ることもある。テレパシー(精神反応)は本当にある。人里はなれて一心に祈る修行者達は、悪い思いは時とすると悪魔からの誘惑であるという。かって、修行中のお釈迦様もマラの誘いに試されたことがあった。 図書館、体育館、デイスコ、寺院 等、場所によって雰囲気がまったく違う影響を人に与えることは誰もが知っている。我々は常に人々の思いの流れの中にいて、我々もまたそれに反応した思いを発信している。仏のご加護をいただくためにはこうした雑多な思いを払い落とす必要がある。そのためには空の瞑想をし、真言をとなえる石鹸で洗い流すシャワーをたびたび浴びねばならない。一日の間にも数秒のミニ瞑想を何度もしたり、あるいは携帯をセットして<ストップ、自分を見つめろ!>とメッセージを時々送るのもよい。自分の弱点を知れば気をつけるべきことが分かる。瞑想を続ける習慣をつけると、自分の内を客観的に見つめることが出来る。頭の中で世間の否定観に加えるような理屈を次から次へと追い続ける代わりに、これは否定観だ、これは怒りだとすぐに分かるから、それが消えて喜びが戻ってくるまで祈る。気難しい人と付き合わざるを得ないこともあるが、身を守るすべを知っておくとよい。生活の場にも、明るい肯定的になるものを選ぶ。すべての物がそれぞれ波長を出していて、知らず知らずのうちに我々に影響を与えているので悪い影響から解放されるために生活環境には気をつけるべきである。 禅の平静を保つ 禅宗の書に、<仏道の修行は自分の意見を持たないことである>と言う。つまり心の内の平静をゆるがせず、澄みきった軽い状態を保つことである。本当の宗教家は、道徳ばかりを重んじて人を非難したり、科学的や政治的な見方で世のあり方を説かない、ただ心の煩悩を静め神や仏を讃えて、愛に満ちた日々を生きるのみである。人里を離れた山の上の寺院に隠れ住むことを好み修行をするのも偶然ではない。人工的な都会のなかではなく自然の中にある真の生命、仏と一体になるためである。 紀元前4世紀の中国で、道教の師、荘子は、皇帝の使いが宮中に招くために訪れたがその迎えを断った。伝説の泥に尾をつけた亀のように、泥沼に生きるほうを好んだという。それは、目的を持たず形式に捉われることなく生命の根源と接して生きる道を選んだ事を言う。どの道を進みどのレベルに達したいと願う生き方の選択問題である。虚栄心から俗世で抜きん出て認められたいと思っても、いつかは老いぼけて古くさいと相手にされなくなるであろうことを知っておくべきである。人間のすることすべてに衰えと終局が来る。これに反して、絶対的真理を知りたいと願えば、普通の人間にはとても言い表せられないような無限の発展と開花がある。それをめざして修行をし瞑想をするには、時間がかかるし余計な物事は捨てねばならない。道教で言う亀のように内のエネルギーを保つ必要がある。 青木先生の生きる喜び 青木融光大僧正は、真言宗豊山派の高僧であり、声明の名手で日本の人間国宝の称号を授けられていた。30年前、1985年3月に94歳で他界された。本山長谷寺で、40年以上勤め多くの僧侶の育成に努められた。故松本実道管長と親しくされていて、宝山寺の聖天様は真言宗全体を守護してくださっていると言われ、尊敬しあっておられた。京都の東寺で、国家守護を祈るために、毎年年頭に行われる御修法と言う重要な儀式の、総監督ともいえる大行事と言う大役を9回も勤められた。また、宗派の様々な儀式、とりわけ最も重大な灌頂に依頼されたこともたびたびあった。1984年の弘法大師御遠忌には、豊山派を代表して高野山奥の院で修法された。 青木先生が私を弟子として受け入れた下さったことは、私にとって大変光栄であったと今でも思っている。初めての出会いは、声明を紹介するために多くの僧侶とともに大般若の法要をしてヨーロッパを一周された時、パリであった。私は医学部を卒業するとすぐに日本に発ち、円通寺事相道場で得度と四度加行をすることが出来た。その後、何回も日本に長期の滞在をして、伝法灌頂と一流伝授を授かった。大日経、真言教理をはじめてフランス語に翻訳して紹介された田島隆純大僧正の御遺族と知り合うことが出来たのも、青木先生のおかげである。 青木先生は深い安らぎを周りにあたえ、健康で生命力あふれる生き方の秘訣は喜びと感謝の気持ちを育むことであると常に言われていた。生気にあふれ、高齢にもかかわらず東京の地下鉄にひとりで乗られていた。あらゆるものに仏を見て感謝と敬意を示され、汽車や車から降りると乗せてもらった機械にむかって頭を下げられた。ありがたい、もったいないはよく口にされた言葉であった。しばしば、生きていることのすばらしさと自然の生命力を感じることに感動されていた。健全な生活を送り、アルコール類は飲まず喫煙には反対であった。そのお人柄は日常の何気ない動作にもうかがわれ、庭の草むしりでさえ優雅に見えた。人間を深く知った洞察は僧侶達に恐れられていた。何事も気にせず人を批判することもなく、世間の地位や栄誉にもとらわれなかった。日々の実践は絶えず感謝することでありすべてを仏に任されていたので、何事も順調に繰り広げられていた。善意をもってすべてを生かす宇宙の生命力を讃える小文を書いた手帳を取り出して時々一人で読んでおられたのを想い出す。 青木先生の思想の中心は、<我々は自分ひとりで生きているのではない、宇宙が生かしてくださっている>であった。私達が初めて吉野山中で求聞持法の修行をした時、<自分が真言をとなえるのではなく、仏様が行をしてくださっていることを忘れないように>と強く言われた。時とすると、お葬式の場でも、悲しんでいる人達に、生命はすばらしい大変貴重なものである、両親やご先祖様にいただいて生きていることに感謝しなくてはならないと説かれていた。 円通寺は小さい寺であったが 青木先生を尊敬する真言宗の僧侶の訪問が多かった。公式の訪問には威儀を持ち、慕って訪れる近郊の農家の人々には優しく応対されていた。また、祈りで病気を治すこともされ、確かに効き目はあったらしく、一時全身不随になった息子の病気を治されたと聞いている。 本当に立派な方であった。今よりずっと厳しく質素で堅実な生き方をした古い世代の日本人の一人であったから、本で読むより、身近に接して生きた仏教について直接多くを学ぶことが出来たのは大きなチャンスであった。円通寺のすぐ近くに住んで毎日青木先生の教えを受けた日々は、私の人生で最も幸せなときであった。 ある夕方、フランスに帰国する前にお別れをした時、会うのはこれが最後だと言われたので、私はその場で3度礼拝をした。心の中でいつも生きておられることを知っているから、あまり悲しいと思わずお別れをした。 天は自ら救ける者を救く 信仰心のある者は、自分の運命は神や仏の手にあることを知っているから、将来のことをあまり心配しない、浮かぶままに直感にしたがって、その場その場に合うように生きる。私の人生の大きな事柄は、私の意志と言うより神秘としか言えない成り行きで実現したことが多い。平静な心で祈るだけでよい。祈りで喜びと感謝にあふれると、仏は、必要なものを丁度よい時に与えるようによい人々を選んで遣わせてくださる。真剣に祈れば救いはある。夜寝る前に私は師僧を呼ぶ、朝になると驚くほどいいアイデアが浮かんでくる。 <何事も偶然に起こるのではない、時期が来るのを待ってくる。すべてを自分で決めようと思うのは間違いだ。成功するには未来のことを考えず運命を信じればよい。昨日は過ぎたこと、明日はわからない神秘、今日は与えられた贈り物、だから、現在(プレザン)は贈り物(プレゼント)と言う。>       パンダ拳法(アニメ)の中の、亀のグエイ大先生の教え キリスト教のある修道女の祈りに、仏教と共通するものがあるので紹介したい。 <今日一日を生きなさい、神が下さったもの、あなたのものだから神と一緒に生きなさい。明日は神のもの、あなたのものではない、今日の心配事を明日に持ち込まないで神に任せなさい。今のこの時は細いつり橋のようなもの、昨日の後悔と明日の心配を積み込むとつり橋は切れてあなたは落ちてしまう。神は過去を許し、未来を授けられる。今日一日を神と共に生きなさい。>

愛から慈悲へ

フランス光明院  融快 (融仙訳)   三匹の蝶が愛の話をしていた。一匹は、「私は愛の炎を見た。」といった。二匹めは、「私の羽は、愛の炎に傷ついた。」といった。三匹めは、なにも言わないで、火に飛び込んで、燃えてしまった。最後の蝶だけが本当に愛を知っていた。 <アラブの伝説> 愛 この世で最も大きい力は愛の力である。人間と社会全体のあらゆる進歩の源であるからである。憎しみ、貪欲、偏見によって、自己に閉じこもるエゴイスムから抜け出て、世の中をより広くより深く理解し、人々のために尽くすことができるようになる。 つ かむ、殴るなどとこぶしを固めると、自分では、強くなったように思うかもしれないが、生命とのつながりが絶たれてしまう。手を開いて与えることから愛が生 まれる。報いを待たずに、恩知らずの人も信じ、与えると、そのうちに自分も心の大きい人たちと出会い、ともに歩むことが出来るようになる。一人ではなにも 出来ない。世の中がよく分かるとは言えない。友情で結ばれ、尊敬しあった人々が集まって、共通の目的に向かって進めば、様々な見地から考察することが出来 るから、目的に到達することが出来る。この視野の広さが成功の基である。 愛は、心を開き智恵を目覚めさせる。子供は、好きな先生の学科がよく出来るようになることが多い、子供の心が、知らず知らずのうちに、先生の考え方と一体になっているからである。 愛 は、世の中を広く肯定的に見るから、他の人々を、暖かく迎えて、守ってあげたいと思う友人のように大切にする。こうした心が内にあると、他の人々からも愛 されるようになる。名前を呼んでやさしく話しかけられれば、自分もやさしく親切にしてあげたいと思うのは当然のことであろう。 愛は、また、人の小さな過ちを笑顔で受け入れ、そっと直してあげようと思う。相手を大切に思えば、自分の過ちを認めて詫びることも容易にできる。自分の欠点にもかかわらず、人は自分を認めていてくれる、本当に自分のことを思っていてくれると思うと、心に安らぎを得る。 会社で、上に立つ者が、部下を大切にすれば、彼らも慕って会社を愛し、一緒に成功に向かって働くことが出来る。同様に、グループはみんなが仲良く、夫婦は互いの愛情が保てる。   慈悲   慈悲は、一生を通して深めることができ,少 しずつ世界中に広がる愛の進行する形である。愛は、まず、幸せな、あるいは幸せであろう努める家庭に生まれる。家庭生活では、子供を育てるために多くの献 身と犠牲を必要とする。来る世代を愛することを学ぶ厳しい学校である。そして、この愛が人類全体に広がる慈悲となる。感謝、喜び、思いやりとなって、周り の人々に分け与える慈悲となる。すべての人々を尊重し、苦しみから救おうと願う。さらに、瞑想をして、空の修行をすると、慈悲は、形を超えて普遍的な愛と なって、宇宙全体のみならず、次元の違う世界にまで広がる。 仏 教では、慈悲は悟りにいたる根本である。すべてに幸せと幸せになる因果を与えたいと願う。毎日となえる5大願では、「すべての衆生を救い、6波羅蜜多の実 践を行い、すべての仏の教えを学び、すべての仏に仕え、悟りを開く、すべての衆生が同じように悟りに達する、」ことを願う。 慈 悲は、大人の愛である、自己中心ではない。宇宙を大きな家族のようにみなして、他との相違を尊重しつつ、自分も全体のために貢献したいと思う。自分だけが 正しいとか真実を知っているとか思わない、他の人々の見地から世の中を見るのも面白いと、好奇心を持つ、連帯感が生まれる。 型 にはまった宗教観に惑わされない、表面は違っても、様々な宗教が目指す目的は同じであることを知る。仏教は、対立のない隔てない愛の智慧によって、すべて に、神や仏を見ることを教える。慈悲はすべての生き物に広げられる。すべてが大日如来の現れであるから、動物、植物、すべてが尊ばれねばならない。人間の 野蛮な行為から守られねばならない。 慈悲は、善行、思いやり、祈り,瞑想などを積み重ねることによって大きくすることができる。心が清らかになると、自然はそれを感じるから、恐れることはなくなる。キリスト教の、アッシジのサン、フランソワ聖者は、動物たちと話をし、一匹の狼が,どこへ行くにもついて来てきたと伝えられている。また、インドの修行者達の中には、猫のように、虎を追い払ったり、毒蛇を家畜のように扱っていた人がいたという。 一生の間には,善い人ばかりでなく悪い人にもで会うが、それも慈悲を大きくすることを学ぶためと思えばよい。敵意に対して、自分がどんな反応をするか,本当の慈悲心を持ったかを自省しよう。   誰の心も同じ、つながっている。   パリ大学の医学部を卒業する際、(医学の父とみなされているギリシャ人,ヒポクラット―紀元前450年)に誓いを立てる。主意は、すべての病人は医者の治療を受ける権利があり、医者はその秘密は守らねばならないという。有名な言葉に、「君が誰か、思想は何か、仕事は何かではなく、どこが痛いかを聞いているのだ。」というのがある。 あ る日、パリのカルチエ、ラタンの教会で祈っていた時、急に大きな悲しみ、絶望感を感じた。そんな時、私はよくするように、教会の周りを歩いて、どこから来 るかを探した。道端に座って物乞いをしている女がいた。友達の肩を抱くように、大きな犬を抱いて話している。彼女に大丈夫かと声をかけると、首を振って、 医者に見てもらってきたところだという。医者は親切に無料で見てくれたが、薬を買うお金がないので困っているという。5分後には薬を手にして喜ぶ彼女に、 お礼には私のために祈ってくださいといって別れた。時々は神様のことを思うであろうと期待したからであった。私の直感からか、あるいは、この教会の目に見 えない愛の心が知らせてくれたかしらないが、確かなことは、我々は、心と心でみんながつながっているということである。 人間や動物などの生き物の苦しみを救うことは,過去世の借金を今払うようなもの、我々は、幾世もの間に、数え切れない動物や人間の生を受けてきた。積み重なった業のために、閉ざされていた心の花びらは、こうしたよい行いによって開いていく。 「物音は善をしない、善は音を出さない。」というが、人に知られず善行をする人は多くいる。 死 期の近い病人の介護をする人たちは、この仕事によって、学ばされることが多いという。人生で、何が一番大切かを知らされるという。祈ることを知っている人 たちは、内に輝きを持っている。次の世に生まれる人たちを助ける渡し舟の船頭さんである。我々は、ほんの僅かの間しかこの世にいないということを忘れない ようにしよう。   動物達の慈悲…