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宇宙と一体になる道

  宇宙と一体になる道       フランス光明院主 融快           <最大の敵はエゴ(我)である>             ダニエル ビヨー                                        訳者 融仙 コロナ禍での一年間、外出自粛など様々な制限の下で在宅生活を余儀なくされた。都会で狭いマンシヨンに一家で暮らすのは容易ではない。家族の間で衝突や口論が起きることは避けられないし、青少年の間に極度の鬱状態に陥った例が幾つも報告されている。我々は自由でないと息が出来ない、くつろげない、自己の生在感を意識して幸せに生きるためにも他の人々を必要とする。 しかし、修行に励む僧たちは閉じこもりの生活をし、時には一生隠遁生活送る僧もいる。孤独の内に悟りを開いてより大きい喜びを体験するためである。この相違は何処から来るのであろうか? 前者は、都会の喧騒の中で感情的な高揚を求める、さもないと生きられないように思っている。後者は、孤独と静寂の中で仏とのふれあいを深めて内の感受性を大きくすることを目指す。 仏教の教えの第一は苦しみは全てが避けられない無常によるという真実である。しかしながら宇宙の生命力は我々一人一人の生命に宿っているので日常生活の楽しみや欲望なしには生きられない。欲望には俗世で自身の外に楽しみを探すと、内なる人間性の本質を知ろうとする出世間の欲望とがある。前者は人や物とへの愛着が生じ執着することから苦悩の源になる。後者は自己のエゴが生み出す世界の幻覺から開放されて心清く静まり安らかさを得ようとする。生命は存続のために動物的情愛を必要とするがそれに伴う苦しみから真の安らぎを得るにはこの世の原始的動物的見地を超えねばならないのはあきらかである。問題は瞑想や祈りによって内的成長をなし遂げるには、時間、静寂、集中力を得るためにこの世の幾つかの楽しみを断念せねばならないことである。こうした人生の進路の選択には大きな勇気と決意が必要である。精神修養の道は心を開花させ真の幸せをもたらす。 キリスト教徒は永遠の生に生まれ変わると言い、ヒンズウ教徒は二度生まれると言っている。つまり瞑想によって内的視野が広まり我々の生きているこの世と同時に異なる次元の世界を知ることが出来ることをいう。人生観が全く変わってくるのでこの世で幸せに生きるためにも大いに役に立つ。 慈悲心が目覚めると人と人との結びつきを知り、限りなく多い各エゴの裏にある一体性が分かるようになる。自分にも自信がつき他の人々とも和を持って生きることが出来る。 そのための精神修行を実践し進歩するためにはまず信仰心を持つことである。 神と仏の存在についての考察 宗教の歴史を見ると、人類の進化の段階に伴い世界を知り理解する仕方が変わるので同時に神の概念が変わってきている。現在の科学者たちは世界の創造は138億年前に遡るビッグ、バンによるという。巨大な黒い穴に凝縮した光の大爆発である。数秒の間に素粒子、続いて水素、ヘリウムの原子核が生み出されて現在の宇宙が構成された。太陽に近い虚空の何処かに灼熱の球体が生まれ、後に地球となった。地球に生命が現れたのは今から63億年前である。はじめは水中の単細胞であったが幾多の種類に分化し増殖するにつれて感覚と知識が発達した。科学のみで理解しようとする人たちはこの創造を偶然としか考えない。全体を築き見守った偉大な建築者の存在を知らない。多種多様な生命体は輝くエネルギーのもとで完全なる和を持って世界中に生まれたのである。しかし、隕石の落下や火山の噴火によって生物の絶滅は何度も繰り返された。 その後人類が出現し、世界の動きを知ろう、有利に利用しようとするようになった。自然現象を説明するに、太陽、水、風などの多くを神々として敬い食べ物や動物等の供えた。戦争の勝利のために人身の生贄をすることもあった。 インドでは、創造神ブラフマ、生命を保持するインドラ、破壊神シバの主なる3神が祀られている。キリスト教では唯一最高の神が7日で世界を創造したと信じた。人間はその最上位にあって動物は全て人間に仕え食料となるだけの存在であるとした。神は悪人を懲らしめ善人つまり信者に報酬を与えるという。その世界観は実存的であって魂の本質を心理的に説明することはないが、聖霊が存在するという信仰は仏教の瞑想によって到達する空の概念に共通する。 仏教は他の宗教と異なり、全ての生物は同一の仏性を備えているという平等性の見地に基づいている。創造に働いた輝く叡智は神、仏といい大日如来と呼ばれて、全ての生物の心の中に存在している。物体にも同じ光から生まれた原子から作られている故に存在すると言う。すべてを同一の愛に包み込む、差別や優先することのないシステムである。真言宗では世界は仏の身体、音は仏の言葉、大きな叡智は衆生の思いに表れているとみなされている。全ての人間は持っているのに見ることも意識することもない仏の叡智に気が付かないでいる。だから助け合う代わりに対立しあうことが絶えない。 始めは残忍で厳しい世界に一人で直面していると思って生存の危険や不安から身を守ろうと思いのままに無謀に振る舞うが、激しい苦痛とか立派な人との出会いから信仰心が芽生えることがある。不条理に思える世界で途方に暮れていた人間も祈るようになる。 ドストエフスキイの小説”カラマーゾフの兄弟”に神父が極悪人の前に跪いて祈る場面がある。周りの人たちは神父が盲目になったかと驚くが、神父は”間もなくこの男の上に降りかかる罪の贖罪の苦しみと懺悔してこれまでの生き方の過ちに気がつくように祈った。”と説明した。神仏の存在を知る第一歩は懺悔することである。心を清めて煩悩をしずめることによって感受性をよみがえさせるために心から祈る。 神経生理学者によると、心臓には動植物の生命のエネルギーを直ちに感じ取る鏡の細胞と言われる細胞があるという。心は言葉や理屈がなくても光のように放射して知りたいものと一体になる、距離の離れや大きさは問題ではない。このような知覚は深い瞑想の際にも起きる現象である。互いが深層意識によってつながっているからである。例えば、愛すると相手の感情は直ぐに感じられるから偽ることは出来ない。キリスト教の新約聖書には”心の清いものは幸せである。神を見るから”とある。 弘法大師の十住心論には心の清められるに従って発展する10段階が説かれている。 毎日仏と法の教えと僧に帰依して調和ある身口意になるように祈っていると心身が落ち着きやさしく穏やかな人間になるので日常生活にもより良く導かれるし、思いがけない神秘な出来事により現実問題が予想外に発展して解決することがある。   ある時、高野山で仮設の小さな小屋の前の庭を耕していた老人を見た。庭の話を少しする内に親しくなりフランスに寺を作っていると言うと、八祖画像を描こうと申し出された。老人は著名な仏画師で高野山に来て大塔の壁画、金剛峯寺の仏画などを描かれていた菊池先生であった。フランス光明院はこうした思いがけない出会いや信者たちからの親切な申し出でほとんどが整われている。 仏は、世界を生きた生命体のように加護している。こうした出会いを与え、功徳のあるなしで罰したり褒めたりしない、原始から人間の心に宿る生命の力である。普通の人たちは苦しみ喜びは偶然と思うが、信仰心のある人は仏が俗世の幻惑から我々を開放する智慧を授けることを知っている。 いつか日本で、若い女性が神道の祈りをして母なる太洋に感謝するビデオを見た。彼女は福島の津波で家族を失ったにもかかわらず感謝して祈っていた。苦しみはエゴを動揺させるが魂を目覚めさせる。  エゴの構成の仕組み エゴとは、意識しなくとも内に残された数々の思い、漠然とした感情、自尊心や見栄から表面をつくろう習慣などが混じり合って成り立ったものである。我々は生まれて以来の蓄積した思考によって自分で築き上げた確信の上に生きている。厳しいしつけや教育によって植え付けられたり、逆に放置されたりした体験のたびごとに浮かんだ思いも加わっている。自分の信じる世界観と行為に基づいて構成された人間性によって日常生活での選択や人生の進路を決めたり他人に対している。エゴの外殻には長い間の様々な感情が積み重ねられ混じり合っているので、突然何の理由もなしに気分が変ったり、自分をとりまく雰囲気を明るくしたり、暗くしたり、固くしたりする等変えるのを周りの人たちはそれを直ぐに感じ取る。その上日常の思いや心配事が絶えず周りに渦巻いている。ラジオの音波が世界中を巡っているように、思いは遠くまで発信されている。それに答える他の人たちの思いが帰ってくるのでまた新たな感情を刺激する等の繰り返しで際限がなくなる。幾多のメデイアが発信する情報や宣伝が我々の意識を汚染している。実際に政治問題とか隣人同士の争いなど我々の心の内の仏性を目覚めさせるための精神修行と関係のないことである。幻惑でしかない。 都会の喧騒にはあまりにも貪欲、怒りの思いが多く激しく混じっていて重苦しい、そこを離れて田舎で静かに暮らしたほうが容易に自身の本性を知ることが出来るであろう。 中国の聖者孔子の言葉に”生きるはひとつの術である””山のように固く水のようにしなやかに”と言う。私はこれを道徳を固く守り柔軟性を持って安らかに生きることを意味すると思っている。 日本である日、95歳の老婦人に何を人生に期待するかと尋ねたら水面を静かに眺めているきれいな鯉の絵を見せた。くよくよせずなるがままに生きると言う。健康に幸せに長生きをするにはずっと先までの計画をたてないが良い、何かを成し遂げたいと思うだけで緊張感が生まれる。失望や動揺があろうと一日一日を丁寧に生きる。 エゴのなす働きとその影響 エゴと欲望を捨てきるのは容易なことではない。我々の内にある生命力は様々な手段で欲望をを満たすように絶えず要求する。”もっと欲しい、もっと多く欲しい”は動き回っていないと死ぬかのように恐れるエゴの策略である。自分の欲望を満たすことが成功した証であると思うのは間違いである。人はメデイアの宣伝に操られているが欲望の多くは無駄なことであるを知るには全部試す必要はない。他人の目を気にする上面だけの生き方は虚栄心を大きくし、おもちゃを欲しがる子供と一緒である。 心理学では深層意識に跡を残すおもな人生体験として拒絶、放棄、貶め、裏切り、不正をあげている。エゴはこうして傷ついた体験を繰り返さないために型にはまった行動を取るようにしむけるが深層意識に押し込め隠された苦しみが取り除かれないでいると正常な社会的行動は不可能である。恐れ、恥、怒りが加わり未成熟な人間のままでいるので他の人々を理解したり、悪人をすばやく見分けて身を守ることが出来ない。子供の時に両親の乱暴に苦しんだことから生涯をとおして同様に乱暴な振る舞いをするひとがいる、愛することを知らないからである。愛するとは心を開き優しく話すことである。エゴは自分の存在感を認めるために必要であるが、集団の中で他と一緒に、敬意を持って生きることも大切である。孔子は”人に生まれるのではなく、人になるのである”。と言って礼儀と敬意は社会人として世の中に和を保つために大切であると説いている。世間は自己統制が出来るかを試す良い試練の場である。人々のために献身する宗教者たちは時々一人になって祈って力を蓄える必要をよく言う。心の手入れをしないと安らぎを保つことは不可能であるからである。意識するしないとにかかわらず欲求不満や不安が昂じると挑戦的になるエゴは目的の達成のためにいろいろな策略を用いる。 インドに伝えられている神話に、絶えず変わる欲望との戦いを例えた戦争の女神ドウルガと悪魔の王アヒサアスラとの戦いの話がある。虎に乗った女神を悪魔はまず水牛になって襲う、次にライオンになるが殺され、高まる欲望のままに剣を持った人間となりさらに女神の首を長い鼻で締め付ける象になって抵抗する。その時女神が舌を出すと悪魔は半分水牛半分象になってついに最終的に殺された。これらの動物はよくある人間の奥に隠された動物的本能、欠点を象徴しており乱暴、自尊心、操る、虚偽、頑固な片意地である。 人間は誰でも心の奥に有る寛大な利他の思いを現す時がより美しく魅惑的である。自分しか考えない時は心が狭く怒りっぽいのですぐ顔に現われる。 エゴを制御するには 修行する僧侶たちは自身の思考と物質主義に陥れる誘惑との戦いに努める。禅宗では心の内の感情的反応を冷静に観察することを水牛を手懐けるといっている。師僧は突然弟子に”どこからきた?” ”どこへいく?”と問いかける。混乱するか物事の外見への執着心を捨てたかを試すためである。直ぐに良い答えをすれば正しい修行の道を進んでいる、実際に今を生きていることを示している。正しい返事は”どこからも””ここです”といって、統制された心には距離も方向もないことを意味する。毎日小さくともなにか楽しみを断念する習慣を持って快楽生活に陥らないように耐えず自身で制御することは良い修行のひとつである 長年の間厳しい質素な生活をして貧しい人たちの世話に献身してきたある修道女が店頭に展示されていたミンクのオーバーを見て欲しくて5分間も動けなかったと自叙伝に書いてあった。或いは高級車に憧れる人もあるかも知れない。しかし禁欲によって内の力が増すが、厳しすぎると苦しみや欲求不満が生まれるので極端に走らないことである。修行によって精神的認識と動物的本能との隔離が生ずる。目的に達する前に内の成熟の度合いが試され試練や誘惑が往々にある。自信を持ちすぎると罠にかかる危険があるから常に導きを受けるべきである。 仏にすがり導かれて生きると大人になれる、祈りが心の奥に隠された苦しみを少しずつ溶かしてゆくので、自分を苦しめた意地悪さの裏に隠された相手の苦しみが察しられ許すことが出来るようになる。こうした重荷から開放されると自信がつき他人の思惑にとらわれることがない、安心して人々を愛することが出来る。一人ぼっちではない、思いやりある暖かい大きな慈愛に包まれていることを感じる。ユーモアが有ると時々自分で自分を笑って本気になりすぎることを避けられるし、世間的地位や外に与えるイメージに縛られなくてすむ。心の落ち着きを取り戻すにはゆっくりと深い深呼吸をする、仏の加護を頼んで深呼吸を繰り返すことである。 学校で子供たちに少し心理学を教えると良い。様々な人間の性格の違いを知れば他人とのより賢明な交流が出来るようになるであろう。 エゴの多様性と一体性 池の表面に風が吹くとさざ波がたつ、無数の小さいさざ波が無数の月を映し出しているのを、煩悩の風に無数の小さいエゴが競い合っているに例えることができる。各人がより良くなることを目指ざせば競争心が高まり刺激し合って互いに努力をするようになる。その中に専制的な人、自分しか考えない人、他人の思いを無視する人が現われると、エゴイスムや嫉妬心で全体に不調和が生まれ一緒にいる楽しみが失われる。池の上の風が静まると波が消えて静かな水面いっぱいに澄みきった大きい月が輝いて映る。共通の目的を持った和のあるグループでは、各人が自由に意見を出し合ってそれぞれ異なった見解を学び豊かに成長する。知らずにいた新しい才能が目覚めることもある。 人生の目的は偶然の出会いにもいろいろな面での交流を行って成長することである。我々は生まれて以来多くの愛と細やかな心使いを受けて育てられてきた。両親や世話をしてくれた人々を感謝の念で思うと優しさ、喜び、謙虚が大きくなり、一人ではないとの確信が持てるようになる。 生命は戦いや争いによって発展したのではなく様々な種類の協力によって共存成長してきたのである。 例えば、我々が食べ物を消化するも腸内にいる1キロ半のバクテリーの働きである。大きな樹木も根本の微小なバクテリー群の働きなしでは生命を保たれない。地上の哺乳類は海中で炭酸ガスを酸素に変える珪藻類のおかげで生きている。地球上の生命の保持のためにあらゆる種類の生き物が協力しあっているという真実を知ると謙虚になってどんな小さい生き物も助けようとする心が生じる。我々は弱くもろい、気候変化や将来危ぶまれている他の変動を生き延びるためには周りの自然環境を大切にし、各人が日常生活においても心すべきである。 私の体験では、苦しんでいる小さい虫や生き物に優しくすると後になって良いことが起きる。生命はひとつである。小さい生き物の苦しみを除くことは私自信の苦しみを除くになる。人生は人間性を大きくする協調の場である。時とすると敵は抵抗したり反論することや身を隠すことを学ばせる友と言える。単純素朴な人、乞食の言葉にも思いがけない賢明さが見られることがある。何人も軽蔑すべきではない。 日本にいた時、東京、京都、奈良などの街角で、四国でも托鉢をして歩いた。托鉢は他への思いやり謙虚を養う修行のひとつである。通る人たち鉢にコインを入れた人たちのために一心に祈るのは気持ちがいい。日本人と日本の風習について大いに学ばされた。 仏教では3段階の修行の仕方を言う。自分のために祈る、自分と周りの人のために祈る、最後に他の人々のためだけに祈る、自己を忘れ自身の悟りを求めることさえ考えないで一心に祈るのが最上である。祈りはエゴや感情を清めて心を広げ菩提心、慈悲の心を目覚めさせ、私利私欲を超えた愛に至る。生命は一体であると実感する智慧が湧いてくる。他の必要とするところを知り、敬意を持って応じると人々は安心し、友情、愛は一層大きくなる。功徳を全ての生物に捧げ、利他の心を地上の全ての生物に広げ幸せをもたらそうとする菩薩になって心の光を世界中に広げる。こうして世界全体の深層意識に働くことが出来るのである。 ある島で象の生態を研究していた科学者が草を食べては病気になっていた象の群れの一頭の象が草を洗って食べることをして回復した。それを真似た他の象たちも洗って食べるようになったので皆回復したことを見た。彼は離れた別の島の象も観察していたが洗って食べて回復していることを知り、遠く離れていても象たちは深層意識で情報を交換しあっていたことを発見した。 人間も同様にそれぞれが遠く離れていても、夜間身体の上にただよう目に見えない光によって夢やテレパシーで情報のやり取りをしている。我々は心で一体である。世に満ちる煩悩をしずめるように祈り助け合うことが出来る。例えば、きれいな花を見て孤独の人たちの心が和らぐように祈り仏に捧げるのも良い。 心の本性 自分はよく知っていると思って自分の考えに固執する危険が往々にしてある。初心を忘れずにいたいものである。実に多くの幻覚を消していかねばならないのが現実である。我々の世界観や修行についての理解の仕方は心と頭上”ウシュニシャ”の発達の度合いによって異なっている。菩提心をもってこの世の人々の幸せのために慈悲の心を目覚まし、空の瞑想によって無知や執着の最後の雲を払う。真の宗教者は無差別の菩提心を持って空の瞑想をする。修行の最終目的は無我に達することである。菩提心とは、大日経に”この世の全ての幻惑から開放する全知を与えるが知識や理解の対象になるものではない、なぜならその本性は言い表すことの出来ない空と同じであって、絶対的清らかさのゆえに特定した概念はなく不動、不分化、不変、不滅である。全ての生物の内に有る心の中に仏の全知の心が溶け込んでいる。”と説かれている。 真実の智慧は概念を比較検討する知能の知的展開ではなく、慈悲に満ちた愛が全ての言葉やイメージを溶かして特定した概念もない、はてしない輝く光の大海に入ることである。学んだり探求の対象になるものではない、思考は言葉によってなされるから限度がある故に真実の智慧に至ることが不可能である。光があらゆる存在の根源であり我々の意識も消えて空に溶け込む。なにかに達し実現することも実現する人もいない。自身の心の本性を知ると、見捨てられる、孤独、死などの恐れをしずめ、自分の存在価値を認め誇示したいという執拗な欲望から解放されるので最大の幻惑が消えて業と輪廻転生の繰り返しを断ち切ることが出来る。 仏教は欲望と執着が我々が個々別々に存在しているという幻覚をつくる基であり、なるがままに生きて現実のこの世や人々を顧みないこと説く。 マルセルプルーストの大河小説”失われた時を求めて”に繊細で可愛がられた子供時代、舞踏会や美しい女性たちと過ごした良き時代、華やかな上流階級を懐かしく思い出されている。すべてが幸福になるために欠かされない大切なことに思われていた。しかし時は過ぎて全てが枯れしぼんで消えていった。素晴らしく見えるが儚いことと肝要な物事との違いを知っておかねばならない。そうすれば精神的成長への多くの障害を避けることが出来る。深く瞑想に集中して自己を忘れると心の空なる本性を知ることが出来る。…

慈悲心の目覚め

慈悲心の目覚め (発菩提心) フランス光明院主 融快ダニエル ビヨー 訳者 融仙 2020年は伝染病 COVID19が世界中に広まり甚大な被害を及ぼしている。フランスでも 不意を打たれた医療従事者たちは極めて困難な事態に直面し、身を守るためのマスクや防護服 は国内での調達が不可能で有様であった。なぜなら医療具の殆どが中国で製造されていて、そ れらの中国製品はUSAへの供給を優先としていたからである。にもかかわらず、病人を治療し て苦しみや孤独から救おうと熱意に燃えた医者、看護師、介護の人々は、自分自身や家族への 危険をかえりみず日夜献身し続けた。なかには病に倒れた人々、命を落とした人々も多くあっ た。世界各地で献身的に貢献された人々、犠牲者たちの勇気に心からの敬意と感謝を込めて祈 りを捧げたい。 こうした惨事を見て多くの人々は経済のグローバル化と国家間の相互依存のありかたに強い疑 問を持つようになった。 フランス共和国のモットーは”自由、平等、友愛”である。国民が暮らしやすく強い安定した国 となるための正義ある社会を築くために掲げる理想である。 慈悲は他人の苦しみに心打たれると自ずから生まれる感情である。人間のみならず全ての生き 物へ愛と優しさ、好意をすすんで育てるようにすると慈悲心は一層大きくなる。弘法大師のお 言葉に”この世の縁なき生きとし生けるもの一切を見るに、あたかもおのれの身体を見るように 見る。善き人の用心は他を先にし、おのれを後にするからである。”とある。 緑色をした小さい毛虫の話 ある朝、入り口の扉を開けると緑色の毛虫が私の方に向かって来るのを見た。”緑は悟りの色、 幻惑のベールを脱いで我見を捨てると真実が見える。”と歌いながら無数の手足を動かしてやっ てくる。 一体何を言おうとするのか不審に思って毛虫に声をかけた。”遠い国から来た君は何を求めてい るの?”私はきっぱりとした声で言ったつもりであったが、内心は多少不安であった。 ”悟りを探している。でもこっちに美味しそうな若葉の香りがしたので腹を満たそうと思っ た。” ”悟りと食べ物とどっちが欲しいのか?君は毛虫にしてはかなり肥っているからそろそろ繭を作 ることを考えるべきだ。食べ物は悟りにはならないが、悟りに到達する助けにはなるだろう。 確かに安心して静かに生きられるのが何よりだが目的は蝶になることだろう。””蝶って 何?””君の身体が今と違ったものに変わること。そうすれば全く違った世界が見える。遠いと ころ、深いところ、君がこれまで知らなかった沢山の生き物が見えるようになる。それが君に とって生きる目的だ。このまま成長していきなさい。今の君にもそれなりの価値がある、君は もっと成長するだろう。阿字はあらゆる真言の根源だ、心に”あ”を繰り返して唱えなさい。真 実を探す君よ、体に気をつけて、さようなら。”この勇敢な毛虫をそっとつまんで植木の間に咲 いていた花の上に静かにのせた。 現実の存在について その夜、いつものように、眠る前にその日の私の言葉と行動を思い出して反省した。小さい毛 虫に分かりやすく教えたであろうか。彼の信念と清純さには心打たれるものがあった。”空”に ついて説明するべきであったかもしれないが、要点だけ言って気を散らさせるのを避けたつも りだった。心に白い月輪を思い浮かべて瞑想することを教えてもよかったが、毛虫はどこに心 があるのだろう。人間が見るように月は丸く清らかに見えないかもしれない。我々とは違う感 覚、例えば嗅覚が鋭く発達しているであろうし、脳の構造が違うので見方が違う。むしろ我々 が現実と思っているのが相対的な世界観でしかない。全ての生き物はそれぞれの脳の発達如何 によって物事を自分なりに把握し理解している。 仏教では唯識論がこの世の全てが意識のみからなっている、現実というものの実在はないと言 う。人間は必要に応じて物事を言葉で言い表す、用いられる言葉は人間が理解できて生存に欠 かせない物事の為に造られたものである。美しいとか魅されるか否かを感じ取るのは心であ る。 もっと科学的に世界を知ろうとするにはより一層客観的に観察せねばならないであろう。…

夢に導かれる

宗教の世界は神秘で素晴らしい、 神秘とは我々が清められるに従って、様々な世界が啓示されるからである。素晴らしいとは 我々の内的体験による発見は想像を遥かに超えて不思議で慈愛に満ちていて皆が同じ一つの心 を分かち合っているからである。一人一人が宇宙の大海の表面に浮かんだ極めて小さい波のよ うなものである。心で繋がっているから、各人の発展は人類全体の発展となる。皆は一緒に成 長している。 心理学では集団意識と言い、仏教では、帝釈天が張り巡らせた網に我々と目に見えないいくつ もの異なる次元の世界に住む生き物全てと結ばれていると言う。宇宙は一つである。だから、 我々は互いに夢や直感により直接影響しあって生きている。 夢の世界 現代の科学はすべてを解くことができない、宇宙は光の大海の中を電波が縦横自在に流れてい る光の大河であると言う。しかし、それぞれ異なる波長に何が生きているかは知らない。我々 の智慧と感受性は、少なくともこの分野ではどんな高性能の機械をも超えている。 人類の誕生以来、シャーマン(霊媒者)や宗教家、特殊な人たちはこれらの目に見えない世界 からのメッセージを、麻薬を使って恍惚状態になったり、あるいは夢で受け取っている。人々 の将来のための重大な事柄にはこうして伺いをたてて決定をした。 紀元前3000年以前に、メソポタミアでは夢の解読が行われていた。古代ギリシャには医学 の神 エスキュラペを祀った神殿が420もあったという。そこでは犠牲の動物の生皮に包まれた病 人を地面に寝せ、その前の祭壇で平癒の夢が見られるように祈る儀式が行われていた。 古代エジプトの王 (ファラオン) の側には夢を解読する24人の専門家が常時仕えていて国 政の助けをした。例えば、王が7匹の肥った牛の後に7匹の痩せた牛が続いた夢を見た時、7 年の豊作の後に7年の凶作が続くと解読されたので、王はさっそく小麦を保管するためのサイ ロを国中につくらせた。 ユダヤ人たちは解読されない夢は手紙をもらっても開けて読まないと同じと言っている。 日本でも、昔は天皇の寝所の側で魔障を退けるために僧侶たちが祈ったという。 夢は人間が取るべき決定にしばしば影響を及ぼすから、答える前に少し待つほうが良い。夜は いい考えを持ってくると言う諺もある。 夢の成り立ち 夢は我々の潜在意識の現れであったり、外から送られたメッセージであったり、或いは他の人 からまたは神からのお告げであったりする。また単なる肉体に溜まった緊張を解くためのはけ 口であることもある。 人間は、思い出さなくとも睡眠時間の20%、つまり100分は夢を見ているという。目が覚 めると8分以内に見た夢の95%を忘れる。だから、夢を思い出すためには直ぐに体を動かさ ず夢の続きを何度も繰り返して思い浮かべ起き上がる前にノートするとよい。 長い年月瞑想をして修行を続けていると夢が変わってくる。心身の緊張を解くためでなく、浄 化され精神が鋭敏になるにつれて発見する新しい世界を探検する我々の意識の働きになる。長 い修行の間には夢や直感によって我々の進歩を見守り導く師僧や善き友たちと出会うのであ る。 心理学と白昼夢の実践 人は多くを知るが自分自身はあまり知らないから同じ過ちを繰り返している。我々を育てる 時、時には親たちも誤りを犯したこともあろう。そのまま放っておくより自分で良くるように 努めるべきである。精神的に苦しんだ人を助けるのは容易ではないとどの精神治療医も言う。 打ち明けて話すようでも実際には本当に苦しむことは言わない、自分のしたことされたことを 恥ずかしがって隠すからである。目を覚ました状態で見る”白昼夢”の治療法は隠れた苦悩の源 を浮上させ開放するに効果的な治療法である。 まず、ゆったりと横たわってリラックスする。あるテーマに浮かんで来るイメージを眺める。 イメージはすべてが象徴で、例えば海の底、お城、火山等々、それに扉をつけたり、友だちを 呼んだり、自分の欠点を人物化して会話する、何を求めるのか聞く。どんな想像でもよい、深 層の意識に閉じ込められていた潜在意識の一部を認識するようになると心が安らぐ。 眠った時、目を覚ましている時を問わず夢で深層の意識から浮かぶ象徴的イメージは何でもな い取りとめのないように見えて、意識でもって阻止することがない。その間、治療医が真言を 唱えていると、患者の深く抑えられていた感情が消えて解放される。…

青木融光大僧正30回忌に想う

安らぎの心           青木融光大僧正30回忌に想う 仏像に見る釈迦牟尼仏のお顔の微笑みには平静な安らぎと深い知慧がうかがわれる。人間は誰もが病と老と死をまぬがれないと知った青年は、王国と妻と子供を捨て、森林に隠退し、厳しい修行を重ねて瞑想にふけった。そして、ついに苦しみから解脱するにいたった。 何を見出したからであろうか?宇宙は一体であることを悟ったのである。 三世常恒に宇宙法界を照らし給う大日如来である。凡聖を貫き十方に普く自他一如の真心である。白浄の蓮華の如く円明の月輪の如く 物と対立する心でなく 所謂物心不二の霊体である。                   青木融光大僧正 大日如来の信仰 我々のある立場によって、同じ出来事でも人によっては天国に見えたり地獄になる場合がある。ある日、日本で料亭に招かれた時、生きたエビが入ったガラスの器がテーブルに運ばれ酒が注がれた。エビ達は苦しんで器の中で飛び跳ねていた。給仕の女性は、気にもせずあたり前のように見ていた。私はかわいそうでたまらなくて、器の上に手をかざして光明真言を繰り返しとなえて、エビ達の臨終を助け天国に生まれ変われるように祈った。勿論、その後では誰もエビを食べようと手を出す会席者はいなかった。会食をお葬式に変えた私は他の人たちの楽しみを壊してしまったが、エビ達は死ぬ前に美しい光が降りてきたのを見たかもしれない。私は料亭の地獄に現れた菩薩になったような気がした。どうして無関心でいられようか?今でも私の行ないは、苦しんでいるものを助けねばならない仏教徒として正しかったと思っている。これは、仏の国から送られた私に慈悲心と生命の一体感が本当にあるかを試すテストであったと思っている。フランスにも、生きたままの鱒を熱湯でゆでるなどの残酷な料理があるが、いくらなんでも客の目の前のテーブルの上で熱湯に投げ込むことはしない。 大日如来は宇宙の生命である。祈ることは、すべての動物植物、生き物の生命と同調し一体となることである。仏教を心底から実践すると、真実の仏は、人間に似た美しい仏像だけでなく、いたるところにあり、目に見えても見えなくてもあらゆるものにある宇宙の生命力であることが分かる。仏教には他を思う人間の生き方を教える十善戒の教えがある。仏教でいう慈悲は人間のためだけに限らず、世の社会全体、自然全体に及ぶものである。 冬になると、私は野生の小鳥達にえさをやる。また、お供え物を食い荒らしに入ってくるネズミがいるので、罠を仕掛けざるを得ないが(生け捕りに出来る大きい罠)捕らえると森に放すまで真言をとなえながら歩いてネズミのために祈る。こうして自然の中の大日如来への供養とする。子供の頃にした魚釣りや遊びで生き物を殺した悪業から私の心は清められてゆく思いがする。宇宙は善であり叡智を持つ、生命を生み出す。戦争、地震、津波等、いかなる苦しみや不幸が身に降りかかろうとも信じることである。仏法僧の三宝に帰依すると自然のあらゆる物に現れたこの大きな叡智につながることが出来る。植物は生命の根源であり、その存在は人の心を安らぎ落着かせ、花の美しさは心を和らげる。動物は、我々と同じ生命と感受性を持つ生き物である。愛しあったり、争そったり、やさしく子供を育てる。自然の生命力は動物達の中により生き生きと現れている。人間は、あまりにも知的で傲慢になりすぎて感受性が薄れ、生命の根を失ってしまった。よりよい人間となり仏と一体になることを願うなら、母なる自然をもっと大切にして、与えられている自然の恵みに感謝せねばならない。パソコンの画面から遠ざかり精神が静まるといろいろなことが感じられるようになる。森の中の生命、岩の力、古い大木の語る物語りなどに心打たれるであろう。こうして宇宙の大生命と一体になることができると自分自身の生命が活性化される。知恵だけを発達させて、自分は独立した強い人間だと思っていても、実際には何も分かっていないのである。 感謝の心 ; 思いがけない大きな出来事は記憶に残るが、多くは普通に過ぎたり、時には退屈に思える毎日を送っている。順調にいった物事、汽車に乗り時間に着いたなど、あまり当たり前のことなので、喜んだり感謝したりするに足りないと思っている。どんなにたくさんの人々の努力の賜物であり大きな恩恵を受けているかに気がつかないでいるからである。おいしい食べ物を作ったり、旅行者に安全で快適な旅を保障するためには多くの努力がいる。毎日食べられることを当然のように思っているが、世界中に飢えで苦しむ人々、子供を健康に育てるために欠かせない物、飲み水も充分にない人々もある。日々の暮らしのうちに喜びと幸せを感じるためには、普通に使っているがもし無くなるとひどく困る小さい物でも、実は大変貴重である物がたくさんあることをことを知る習慣をつけることである。誰かが、<幸せが私から去った時まで、私は幸せであったことを知らなかった。>といった。時として、何か大切なものを失うこと、病気、死などは我々に生命がいかに大切であるかを分からせるために必要なのかもしれない。幸せは自分が持っているものの価値を認識することから生まれる。ドイツの哲学者、ショウペンハウワー(1788~1860)は<幸福論>のなかで、<今自分が所有するものを奪われたかのような目で見る。>と助言している。 感謝は、まず身近な人々あるいは未知の多くの人々が我々の幸福のために毎日力を尽くしている広く長いつながりを思い、敬意と愛の気持ちを持つことから生まれる。時々それが恵まれた贈り物であったと見直すと、また改めて喜びを感じることが出来る。さらに他の人々に喜びを分かち合いたいと願えば、幸せは大きくなる。丁度ろうそくの光を他のろうそくにつけるとますます明るくなるように、慈悲や愛情をこめた思いは、家族のつながりを深めるだけでなく、遠くまで広まり人類全体に及ぼされる。仏教では功徳を回向して世のすべての衆生と平和のために祈るが、回向の力が慈悲心をいっそう大きくする。 私は中国製の古い上着を長年愛用しているが、時々これを作った人達のことを思う。どんな人達であったであろうか?生活に充分な給料をもらっているであろうか?そして、世界中の搾取され働く人達のために真言をとなえて祈る。他の人々の幸せを思うことによって我々自身の心が開け、光が入って寛大になれる、連帯感が生まれる、すべての人類の働きに参加するから、自分にもさらに幸せを感じる。友情は心を開き幸せにするに反して不幸は自分に閉じこもるることである。不平不満の源だと思う数多い物事をを反芻し続けることである。幸福は、いわば生きる上での技術で得られるものであるから、これを覚えて毎日実践すればよい。フランスの哲学者、モンテーニュ(1533~1592)は<私は腹の立つことは考えない、心配事はくよくよしないで、日々の小さい楽しみを喜ぶ。>と言っている。 故松本管長は、<喜びは幸せを呼ぶ。>とよく言われていた。喜ぶ心の波動は、楽器の音のように伝わってあらゆるチャンスと幸福の源泉と一体になることができる。我々は心臓の鼓動や消化する胃の働きを意識しないが生きるためには最も大事なことであると同様に、喜びが精神的呼吸を助けるので、常に心に喜びを保つことが大切である。 真言宗の実践の1つ、金剛薩垂の真言をとなえて祈ると智慧と愛の水が注がれ身体中に浸透して悪い思いや暗い感情を清め、正しい直感が与えられ導かれることが分かるようになり未来を信じることが出来る。不安がしずまり身体も健康になる。喜びが内に満ちると周囲にも感じられるから明るい肯定的な人々が寄ってくる、時には救いを求める人もくる。 感謝の心はエゴイスムの狭い殻から抜け出させる。弘法大師の四恩の教えのように、仏にありがとう、師にありがとう、親にありがとう、国に感謝し 生命を与え、人のために尽くすように導いて下さったことに感謝をする。心に他の人々を、それが悪人であっても、多く抱けば抱くほど、自己中心の心から開放され空の世界に広がる。そして、安らぎを得て世界のために尽くそうと心構えが出来る。心は一層大きく広く輝くようになる。 心の毒になるもの 幸不幸は偶然によって起こるものではなく、習慣となっている我々のあり方や考え方の結果である。自分で自分の不幸を作っている人が多くいる。暗い否定的な考えを繰り返し反芻したり、恨んだり、復習しようと人を傷つけたり、自分の欲求不満から人に当り散らす。仲間同士のからかいも、自分の思い通りにならならない事柄への怒りが隠されていることがある。不平不満の苛立ちを身近のもの、弱いものにぶつける。自分自身を知ることなくして、こうした心をコントロールできようか?とりとめのない言葉やいじわるは、長い間に不調和の雰囲気となって周りを包む。すべてがうまく行かない、世の中は不公平だと愚 痴を言うが、自分で作り出した不調和の中で幸せになりたいと欲しても不可能なことである。だから仏教で教える<十善戒>を守る生き方を実践して、他をいため傷つけないことは幸福を得るためになすべき最小限である。 私の師僧、青木融光大僧正は、怒り、恨み、ねたみ、慳貪などの心の毒を退けることが大切であると特に重視されていた。こうしたすべての心におこる反応は、自分と他を区別して不満足や恐れを抱く我々の脳の原始的な働きの現れである。本能的に自分を守ろうして他を否定するが、結果は視野を狭くし自己に閉じこもることになる。仏とのつながりを忘れ、宇宙の生命力から切り離される。菩提心を目覚めさせ思いやりを持ち信じて祈れ ばすべての問題は時とともに消えていく。世間の心配事にもクヨクヨしないでいれば、悪いようにはならないものである。 浮かぶ思いや考えを監視する 幸せに輝く人もいるし、まるきり反対の人もいる。その違いは常日頃心にどんな思いを浮かべ考えているかからくる。それらがオーラ(ひかり)となって発光されているからである。昔からなにげなく言っているように、悲しみを<心が重い、締めつけられるようだ、目の前が真っ黒になる、灰色の人生、>などと感覚的に質感や色によって表現する。また喜びは、<輝く、暖かい、黄色、金色、軽い、飛び立つ気持ち、もも色の人生>などと言う。思いや考えはラジオの音波のように伝播するので、それらが繰り返され続けると積もって、世間で言う流行になったり、暴動のような集団行動になって現れる。全てが思いや考えから始まっている。善にしろ悪にしろ業(カルマ)となって積もり機が熟して具体化するのを待つのである。だから、知らず知らずに犯す過ちを避けるためにも、絶えず心に浮かぶ思いや考えを見つめてコントロールすることが非常に大切である。それは自分のうちから起こるのではなく外から来ることもある。テレパシー(精神反応)は本当にある。人里はなれて一心に祈る修行者達は、悪い思いは時とすると悪魔からの誘惑であるという。かって、修行中のお釈迦様もマラの誘いに試されたことがあった。 図書館、体育館、デイスコ、寺院 等、場所によって雰囲気がまったく違う影響を人に与えることは誰もが知っている。我々は常に人々の思いの流れの中にいて、我々もまたそれに反応した思いを発信している。仏のご加護をいただくためにはこうした雑多な思いを払い落とす必要がある。そのためには空の瞑想をし、真言をとなえる石鹸で洗い流すシャワーをたびたび浴びねばならない。一日の間にも数秒のミニ瞑想を何度もしたり、あるいは携帯をセットして<ストップ、自分を見つめろ!>とメッセージを時々送るのもよい。自分の弱点を知れば気をつけるべきことが分かる。瞑想を続ける習慣をつけると、自分の内を客観的に見つめることが出来る。頭の中で世間の否定観に加えるような理屈を次から次へと追い続ける代わりに、これは否定観だ、これは怒りだとすぐに分かるから、それが消えて喜びが戻ってくるまで祈る。気難しい人と付き合わざるを得ないこともあるが、身を守るすべを知っておくとよい。生活の場にも、明るい肯定的になるものを選ぶ。すべての物がそれぞれ波長を出していて、知らず知らずのうちに我々に影響を与えているので悪い影響から解放されるために生活環境には気をつけるべきである。 禅の平静を保つ 禅宗の書に、<仏道の修行は自分の意見を持たないことである>と言う。つまり心の内の平静をゆるがせず、澄みきった軽い状態を保つことである。本当の宗教家は、道徳ばかりを重んじて人を非難したり、科学的や政治的な見方で世のあり方を説かない、ただ心の煩悩を静め神や仏を讃えて、愛に満ちた日々を生きるのみである。人里を離れた山の上の寺院に隠れ住むことを好み修行をするのも偶然ではない。人工的な都会のなかではなく自然の中にある真の生命、仏と一体になるためである。 紀元前4世紀の中国で、道教の師、荘子は、皇帝の使いが宮中に招くために訪れたがその迎えを断った。伝説の泥に尾をつけた亀のように、泥沼に生きるほうを好んだという。それは、目的を持たず形式に捉われることなく生命の根源と接して生きる道を選んだ事を言う。どの道を進みどのレベルに達したいと願う生き方の選択問題である。虚栄心から俗世で抜きん出て認められたいと思っても、いつかは老いぼけて古くさいと相手にされなくなるであろうことを知っておくべきである。人間のすることすべてに衰えと終局が来る。これに反して、絶対的真理を知りたいと願えば、普通の人間にはとても言い表せられないような無限の発展と開花がある。それをめざして修行をし瞑想をするには、時間がかかるし余計な物事は捨てねばならない。道教で言う亀のように内のエネルギーを保つ必要がある。 青木先生の生きる喜び 青木融光大僧正は、真言宗豊山派の高僧であり、声明の名手で日本の人間国宝の称号を授けられていた。30年前、1985年3月に94歳で他界された。本山長谷寺で、40年以上勤め多くの僧侶の育成に努められた。故松本実道管長と親しくされていて、宝山寺の聖天様は真言宗全体を守護してくださっていると言われ、尊敬しあっておられた。京都の東寺で、国家守護を祈るために、毎年年頭に行われる御修法と言う重要な儀式の、総監督ともいえる大行事と言う大役を9回も勤められた。また、宗派の様々な儀式、とりわけ最も重大な灌頂に依頼されたこともたびたびあった。1984年の弘法大師御遠忌には、豊山派を代表して高野山奥の院で修法された。 青木先生が私を弟子として受け入れた下さったことは、私にとって大変光栄であったと今でも思っている。初めての出会いは、声明を紹介するために多くの僧侶とともに大般若の法要をしてヨーロッパを一周された時、パリであった。私は医学部を卒業するとすぐに日本に発ち、円通寺事相道場で得度と四度加行をすることが出来た。その後、何回も日本に長期の滞在をして、伝法灌頂と一流伝授を授かった。大日経、真言教理をはじめてフランス語に翻訳して紹介された田島隆純大僧正の御遺族と知り合うことが出来たのも、青木先生のおかげである。 青木先生は深い安らぎを周りにあたえ、健康で生命力あふれる生き方の秘訣は喜びと感謝の気持ちを育むことであると常に言われていた。生気にあふれ、高齢にもかかわらず東京の地下鉄にひとりで乗られていた。あらゆるものに仏を見て感謝と敬意を示され、汽車や車から降りると乗せてもらった機械にむかって頭を下げられた。ありがたい、もったいないはよく口にされた言葉であった。しばしば、生きていることのすばらしさと自然の生命力を感じることに感動されていた。健全な生活を送り、アルコール類は飲まず喫煙には反対であった。そのお人柄は日常の何気ない動作にもうかがわれ、庭の草むしりでさえ優雅に見えた。人間を深く知った洞察は僧侶達に恐れられていた。何事も気にせず人を批判することもなく、世間の地位や栄誉にもとらわれなかった。日々の実践は絶えず感謝することでありすべてを仏に任されていたので、何事も順調に繰り広げられていた。善意をもってすべてを生かす宇宙の生命力を讃える小文を書いた手帳を取り出して時々一人で読んでおられたのを想い出す。 青木先生の思想の中心は、<我々は自分ひとりで生きているのではない、宇宙が生かしてくださっている>であった。私達が初めて吉野山中で求聞持法の修行をした時、<自分が真言をとなえるのではなく、仏様が行をしてくださっていることを忘れないように>と強く言われた。時とすると、お葬式の場でも、悲しんでいる人達に、生命はすばらしい大変貴重なものである、両親やご先祖様にいただいて生きていることに感謝しなくてはならないと説かれていた。 円通寺は小さい寺であったが 青木先生を尊敬する真言宗の僧侶の訪問が多かった。公式の訪問には威儀を持ち、慕って訪れる近郊の農家の人々には優しく応対されていた。また、祈りで病気を治すこともされ、確かに効き目はあったらしく、一時全身不随になった息子の病気を治されたと聞いている。 本当に立派な方であった。今よりずっと厳しく質素で堅実な生き方をした古い世代の日本人の一人であったから、本で読むより、身近に接して生きた仏教について直接多くを学ぶことが出来たのは大きなチャンスであった。円通寺のすぐ近くに住んで毎日青木先生の教えを受けた日々は、私の人生で最も幸せなときであった。 ある夕方、フランスに帰国する前にお別れをした時、会うのはこれが最後だと言われたので、私はその場で3度礼拝をした。心の中でいつも生きておられることを知っているから、あまり悲しいと思わずお別れをした。 天は自ら救ける者を救く 信仰心のある者は、自分の運命は神や仏の手にあることを知っているから、将来のことをあまり心配しない、浮かぶままに直感にしたがって、その場その場に合うように生きる。私の人生の大きな事柄は、私の意志と言うより神秘としか言えない成り行きで実現したことが多い。平静な心で祈るだけでよい。祈りで喜びと感謝にあふれると、仏は、必要なものを丁度よい時に与えるようによい人々を選んで遣わせてくださる。真剣に祈れば救いはある。夜寝る前に私は師僧を呼ぶ、朝になると驚くほどいいアイデアが浮かんでくる。 <何事も偶然に起こるのではない、時期が来るのを待ってくる。すべてを自分で決めようと思うのは間違いだ。成功するには未来のことを考えず運命を信じればよい。昨日は過ぎたこと、明日はわからない神秘、今日は与えられた贈り物、だから、現在(プレザン)は贈り物(プレゼント)と言う。>       パンダ拳法(アニメ)の中の、亀のグエイ大先生の教え キリスト教のある修道女の祈りに、仏教と共通するものがあるので紹介したい。 <今日一日を生きなさい、神が下さったもの、あなたのものだから神と一緒に生きなさい。明日は神のもの、あなたのものではない、今日の心配事を明日に持ち込まないで神に任せなさい。今のこの時は細いつり橋のようなもの、昨日の後悔と明日の心配を積み込むとつり橋は切れてあなたは落ちてしまう。神は過去を許し、未来を授けられる。今日一日を神と共に生きなさい。>

愛から慈悲へ

フランス光明院  融快 (融仙訳)   三匹の蝶が愛の話をしていた。一匹は、「私は愛の炎を見た。」といった。二匹めは、「私の羽は、愛の炎に傷ついた。」といった。三匹めは、なにも言わないで、火に飛び込んで、燃えてしまった。最後の蝶だけが本当に愛を知っていた。 <アラブの伝説> 愛 この世で最も大きい力は愛の力である。人間と社会全体のあらゆる進歩の源であるからである。憎しみ、貪欲、偏見によって、自己に閉じこもるエゴイスムから抜け出て、世の中をより広くより深く理解し、人々のために尽くすことができるようになる。 つ かむ、殴るなどとこぶしを固めると、自分では、強くなったように思うかもしれないが、生命とのつながりが絶たれてしまう。手を開いて与えることから愛が生 まれる。報いを待たずに、恩知らずの人も信じ、与えると、そのうちに自分も心の大きい人たちと出会い、ともに歩むことが出来るようになる。一人ではなにも 出来ない。世の中がよく分かるとは言えない。友情で結ばれ、尊敬しあった人々が集まって、共通の目的に向かって進めば、様々な見地から考察することが出来 るから、目的に到達することが出来る。この視野の広さが成功の基である。 愛は、心を開き智恵を目覚めさせる。子供は、好きな先生の学科がよく出来るようになることが多い、子供の心が、知らず知らずのうちに、先生の考え方と一体になっているからである。 愛 は、世の中を広く肯定的に見るから、他の人々を、暖かく迎えて、守ってあげたいと思う友人のように大切にする。こうした心が内にあると、他の人々からも愛 されるようになる。名前を呼んでやさしく話しかけられれば、自分もやさしく親切にしてあげたいと思うのは当然のことであろう。 愛は、また、人の小さな過ちを笑顔で受け入れ、そっと直してあげようと思う。相手を大切に思えば、自分の過ちを認めて詫びることも容易にできる。自分の欠点にもかかわらず、人は自分を認めていてくれる、本当に自分のことを思っていてくれると思うと、心に安らぎを得る。 会社で、上に立つ者が、部下を大切にすれば、彼らも慕って会社を愛し、一緒に成功に向かって働くことが出来る。同様に、グループはみんなが仲良く、夫婦は互いの愛情が保てる。   慈悲   慈悲は、一生を通して深めることができ,少 しずつ世界中に広がる愛の進行する形である。愛は、まず、幸せな、あるいは幸せであろう努める家庭に生まれる。家庭生活では、子供を育てるために多くの献 身と犠牲を必要とする。来る世代を愛することを学ぶ厳しい学校である。そして、この愛が人類全体に広がる慈悲となる。感謝、喜び、思いやりとなって、周り の人々に分け与える慈悲となる。すべての人々を尊重し、苦しみから救おうと願う。さらに、瞑想をして、空の修行をすると、慈悲は、形を超えて普遍的な愛と なって、宇宙全体のみならず、次元の違う世界にまで広がる。 仏 教では、慈悲は悟りにいたる根本である。すべてに幸せと幸せになる因果を与えたいと願う。毎日となえる5大願では、「すべての衆生を救い、6波羅蜜多の実 践を行い、すべての仏の教えを学び、すべての仏に仕え、悟りを開く、すべての衆生が同じように悟りに達する、」ことを願う。 慈 悲は、大人の愛である、自己中心ではない。宇宙を大きな家族のようにみなして、他との相違を尊重しつつ、自分も全体のために貢献したいと思う。自分だけが 正しいとか真実を知っているとか思わない、他の人々の見地から世の中を見るのも面白いと、好奇心を持つ、連帯感が生まれる。 型 にはまった宗教観に惑わされない、表面は違っても、様々な宗教が目指す目的は同じであることを知る。仏教は、対立のない隔てない愛の智慧によって、すべて に、神や仏を見ることを教える。慈悲はすべての生き物に広げられる。すべてが大日如来の現れであるから、動物、植物、すべてが尊ばれねばならない。人間の 野蛮な行為から守られねばならない。 慈悲は、善行、思いやり、祈り,瞑想などを積み重ねることによって大きくすることができる。心が清らかになると、自然はそれを感じるから、恐れることはなくなる。キリスト教の、アッシジのサン、フランソワ聖者は、動物たちと話をし、一匹の狼が,どこへ行くにもついて来てきたと伝えられている。また、インドの修行者達の中には、猫のように、虎を追い払ったり、毒蛇を家畜のように扱っていた人がいたという。 一生の間には,善い人ばかりでなく悪い人にもで会うが、それも慈悲を大きくすることを学ぶためと思えばよい。敵意に対して、自分がどんな反応をするか,本当の慈悲心を持ったかを自省しよう。   誰の心も同じ、つながっている。   パリ大学の医学部を卒業する際、(医学の父とみなされているギリシャ人,ヒポクラット―紀元前450年)に誓いを立てる。主意は、すべての病人は医者の治療を受ける権利があり、医者はその秘密は守らねばならないという。有名な言葉に、「君が誰か、思想は何か、仕事は何かではなく、どこが痛いかを聞いているのだ。」というのがある。 あ る日、パリのカルチエ、ラタンの教会で祈っていた時、急に大きな悲しみ、絶望感を感じた。そんな時、私はよくするように、教会の周りを歩いて、どこから来 るかを探した。道端に座って物乞いをしている女がいた。友達の肩を抱くように、大きな犬を抱いて話している。彼女に大丈夫かと声をかけると、首を振って、 医者に見てもらってきたところだという。医者は親切に無料で見てくれたが、薬を買うお金がないので困っているという。5分後には薬を手にして喜ぶ彼女に、 お礼には私のために祈ってくださいといって別れた。時々は神様のことを思うであろうと期待したからであった。私の直感からか、あるいは、この教会の目に見 えない愛の心が知らせてくれたかしらないが、確かなことは、我々は、心と心でみんながつながっているということである。 人間や動物などの生き物の苦しみを救うことは,過去世の借金を今払うようなもの、我々は、幾世もの間に、数え切れない動物や人間の生を受けてきた。積み重なった業のために、閉ざされていた心の花びらは、こうしたよい行いによって開いていく。 「物音は善をしない、善は音を出さない。」というが、人に知られず善行をする人は多くいる。 死 期の近い病人の介護をする人たちは、この仕事によって、学ばされることが多いという。人生で、何が一番大切かを知らされるという。祈ることを知っている人 たちは、内に輝きを持っている。次の世に生まれる人たちを助ける渡し舟の船頭さんである。我々は、ほんの僅かの間しかこの世にいないということを忘れない ようにしよう。   動物達の慈悲…