行事

真実を知る時

フランス光明院、融快(融仙訳) :   <明日せねばならないことは、今日しなさい。今晩せねばならないことは、朝のうちにしなさい。死は仕事を終えるまで待ってはくれない>インド古典,マハバラタ     幸福の源   フ ランス語では、幸福という言葉は,良いと時という二字からなっている。つまり、物事が成功するための良い条件が良い時に起こることをいう。最近のこと、儀 式に使うために、白い大きいテントを探していた時、光明院から50キロメートル離れた店で、望みどおりのテントが見つかったので,買おうと思ったが、大き すぎて私の車に入らない。困って,諦めかかった時、店の前で小型トラックに積み込んでいるアラブ人がいた。何気なく、どこへ行くのか聞くと、私の家の近く まで行くという。わずかの謝礼で快く運んでくれた。別れる時、私は彼にアラーの神様のおかげだねといった。 幸 福は、時とすると、求めなくてもやってくる。丁度,思ってもいない時に、思いがけない所で、偶然に、出会う友人のようなものである。論理的には、ほとんど 出会う可能性がないチャンスなので、我々の知恵では探知できないような、深い叡智の導きではないかと思うことがある。                      仏に帰依すると、世の中のあらゆる表現をもってしても、とても言い表わすことのできない深い叡智と結ばれる。我々は、気がつかないままに、偶然だ とか、自分が努力したからだとか思っているが、良い時に、良い人との出会いがあるのも、目に見えない、この叡智の働きがあるからである。 宇 宙は生きている。我々が敬意を持って大切にすれば、それに応じて答えてくれる。自分の不幸を世の中のせいにして、他人を非難ばかりしたり、自分の欲望や官 能のままにしていたり、あるいは、自分の利益しか考えず悪事をしたり、自己の殻に閉じこもっていたら、良いことは何も起こらないであろう。反対に、他の 人々のことを思い、これまで受けた恩恵に感謝をして生きれば、心が生き生きとなり、すべてがおのずからやってくる。我々がするのではなく、仏の働きが我々 を通して現れるからである。あらゆる生物とその働きは、宇宙の絶対者である仏の現れであるから、すべてに慈悲を持って尊ぶのが当然である。仏教徒の正しい 生き方は、どんな恐しい悪人とも、見下げるような人間とも,和を持って生きることを学ぶことである。物品を失うこともあろう。ののしられることもあろう。 悪事を犯して良心を失ったり、恨みでかたくなになると、もっと大切なもの、魂を失う、幸せになる因を失うことになる。だから,慈悲心を忘れないようにしよ う。仏はどこにもおられる。泥棒も、最悪の暴虐者も、失衰するときは哀れな人間である。といっても、悪のなすままにしておけというのではない。人間を、別 れ別れにして、争いを起こすもとは、人間一人ひとりが狭い視野の中で生きているからである。恐怖、虚栄、怠惰などから、似たもの同士で集まりたがる。自分 たちと習慣、考え方、生き方の違う者を遠ざけようとする。こうした集団本能に従うと、自分も他の人々と同じ価値ある人間であると安心はするが,狭いとらわ れにとじこもってしまうことになる。 賢 者は真実はひとつしかないと固執することはしない。世の中にはさまざまな理解の仕方がある。自分自身を知るのは面白い。他の人々と接すれば、自分の視野の 枠を超えて大きくなれるから、もっと面白い。自分を鍛える、観察する、幻惑にとらわれていないか修正する。とらわれなく柔軟性を持って思考する者は、次元 の異なる世界に生きることができる。いたるところに友を見、あらゆる物が語りかけるを聞く、小さな虫さえメッセージを伝えている。自然のすべての音に宇宙 の大生命の声を聞く。捉われから解放されればされるほど,すべてが結ばれていることを知る。生きるとは、宇宙の多種多様な現れに順応し、大生命とダンスを しているようなものである。仏法に従うとは、自分は、良い時に良い所にいるか、自分の言動は他の必要に応じているかと絶えず自問をすることである。心が、 空で、清らかな鏡のようになると他の人々の心も鋭敏に感知することができるから、いついかなる場合にも、すみやかに適応できる。しかし、自分だけを頼りに するのではない。ただの人間でしかない我々の知恵や力だけでは不充分である。時とすると、感情的、影響されやすく、無分別、時には激上する、理論は知って いても逆の言動をしてしまうことが応々にある。堅い信心をもって、一心に祈ると、仏の智慧が降りてくるので、障害が消える。物事に動揺しなくなる。他の 人々を本当に助けるためには,仏とのつながりを保たねばならない。   祈りは何をもたらすか?   宗教なくして、いかなる社会も成り立たないし、発展しない。エゴのぶつかり合いで共同生活が不可能になるからである。宗教は,  恨み、ねたみ、傷ついた自尊心を癒す薬である。友愛で人々の心をつなぐセメントのようなものである。物事の根源に働いて、目に見えない幸せの種をまく。時 が来ると、良いチャンスとか良い人との出会いになって現れる。富を蓄えて、自分だけ幸せになろうと思っても、最後には、失望するだけであろう。この世の何 物をもってしても、心の空虚を満たすことはできないからである。宗教は、他のために尽くせば、自分も成長することを教えて、人間のなすことすべてに意義を 与える。祈ると、誰もが大きく成長して、正しい行いをする、正しくないことはしないという自分を制する知恵と力を得ることができる。お不動様のように、物 事の本質を知って、誤りを断つ、ゆるぎない忍耐力が得られる。自分の一生をいかに生きるか? 内の目覚め(悟りを求めるための生き方を選択しているか?  瞑想をして自分を深く知るためには、時間と静寂、精神力の集中が必要であるから、孤独に生きねばならない。我々は,すべてに慈愛を注ぐ、全体意識に結ばれ ているから、誠実な愛の心を養えば、すべての生き物と調和をもって生きられる。互いが知らず知らずのうちに助け合っている。喜びの心を常に持っていると、 苦しむ人を遠くからでも癒すことあできるし、自分が苦しむときには、友愛の力によって助けられる。アレキサンドル、ヂュマの小説<三銃士>の合言葉は、 <一人はみんなのため、みんなは一人のため>という。仏になることは、一種のスーパーマンになることではなく、人類全部と,目に見えない次元の人々とも結 ばれた人間になることである。心が広く大きくなり、世の中の見方が広がるので、普通の人たちとは同じような考え方をしない。ある日、東京に帰るという、パ リに住む日本人の女性に、<この頃、地震が多いそうだから、気をつけて、あなたのために祈りますよ。>といったら、彼女は冗談に,<融快さんは地震を止め られるんですか>といったので、.<違…

人生の選択 フランス光明院 融快(融仙訳)

最後の花、最後の木が切られ、川に最後の魚が無くなった時、                                                                                           人間はお金は食べられないと気がつくであろう。 アメリカインデアンの酋長   仏 教が教える生き方の根本は、普遍であって、時や場合によって変わることはない。戦争や平和、金持ちや貧乏人でも、カルマ(因果)の法則は同じである。他の 生き物へのよい行いは幸せをもたらし、悪い行いは不幸をもたらす。長い人生の間には、様々な善悪の行いをする機会に出会う。見ないふりをいたり、無関心の まま何もしないことがある。善い行いををすることを選ぼう、心が明るくなる。仏様は悟りの扉を開く前に、我々の慈悲心を試される。   インドの伝説 インドに伝えられている古い伝説に、世界の移り代わりを4段階に分けて人間社会の推移を象徴的に描いたものがある。 第1の世界は、賢者の時代、 修行者たちがヒマラヤの山中に住み、瞑想をする。深い瞑想の力が実世界に及ぶので、地上は一種の天国のようになる。全てが調和のもとに、適時に自然に現れ る。人間の心には自我がなく、執着もせず、強いて意図することもなく日々の働きをする。心に浮かぶままに、その時その場になすべきことをする。 第2の時代は王さまが 現れ、すべての国民が仲良く暮らせるように賢明に政治を行う。階級を定め、知恵ある大臣を指名して、全てが秩序よく行われるようにする。法律家が、みんな が進んで従うような正しい法律を作る。各人が幸せに暮らし、王国で定められた階級に従って、満足している。天によって定められた階級は、王が天の神の子孫 であることを立証するものだあるから、誰も抗議をしない。礼儀、礼節、儀式を大切にし,形式や芸が高く評価かされる。長い間には、雄雄しい男らしさが柔軟 化する。 第3の時代は,武士達が 武器を持って反乱する時代である。互いに権力をつかもうと、各地で争いが起きる。武力、勇敢、巧妙、戦術などが誉められる。国民は軍隊に徴用され、飢饉が 広まり、貧困や死が人々を襲う。一族一党がそれぞれ対立して戦うことに熱中して、大事なことを忘れてしまう。みんなが同じ地上に生まれた人間同士であるこ とを忘れる。対立、憎しみ、恨み, 傲慢心、復讐心がいつまでも心に残る。平和を主張すれば、卑怯者、裏切り者と見下される。 第4の時代は、世界の終末,<カリユガ> といわれ、伝説によると、ビシュヌ-神の22回目の出現、最後の出現があるという。「この世の終わりに、すべての王が泥棒になったとき、宇宙の主が現れる であろう。白い馬の頭をして、カリキと呼ばれるであろう。」「黄金時代をもたらし、悪人らを懲らしめ、有徳者たちに報いるであろう。それから、世界を破壊 するであろう。その後には、その残骸の跡に新しい人類が生まれ出るであろう。」 これらの4段 階には、自己意識、自尊心、欲望が生まれ、人間が尊敬心を持たなくなると、デカダンスが興じて人類の絶滅を招く過程が描かれている。かっては、神に祈るの も自然に祈るのも同じであった。自然は目で見える神の一部であるから、自然を敬うは神を敬うと等しいと思われていた。動物や森の木々に神が宿ると信じられ ていた。自然とのハーモニーの中に生きることに健康と幸せを見出していた。 不安に満ちた世にも平静を保つ 自 分や他の人々の運命を向上させるために一番よいのは、いかなる状況におかれようと、平静の心を保つことである。戦争中、ユダヤ人の女性が捕らえられて、収 容所に入れられたとき、みごもっていた。ドイツ人たちは生まれた子供を殺さず、赤ちゃんを抱いた彼女を見せて宣伝にした。食べ物はほとんどなかったが、彼 女は笑顔を絶やさず笑っていた。ピアニストであった彼女が収容所で演奏するときは、心の喜びを他の人々に伝えるのが彼女の務めであると思っていた。空腹に 泣く子供には、笑って、食べる必要はないと答えていた。極限の厳しい生活であったが彼女は生き耐えた。戦争が終わった後にも、心に喜びを絶やさなければ、 すべての困難も少しずつ解決されると信じていた。希望は絶対に失ってはならない。彼女の固い信念によって、多くの人たちの命が救われた。愛とやさしさに満 ちた音楽を聴いたユダヤ人の囚人達は生きのびる力を見出したからである。彼女は百歳を超える長寿を全うした。                                        周りが騒ぎ、絶望するとき、静かにやさしくするのが最高の贈り物である。世の中の出来事を非難したり怒ったりしない 人がいたら敬意を表したい。心が喜びに輝く人は本当にまれであるから、幸せな運命が開かれる。花が開いて蝶がよって来るように、人が寄ってくるであろう。     生きるための光 近 い将来、我々を襲うであろう危機の原因は、人間が貪欲から正しい知恵をなくしたからである。 インドのガンジー聖者の言葉に、「地球は人類全部を養うだけ 充分大きい。しかし、一人ひとりの貪欲を満足させるためには充分ではない。」とある。                       光明院は、人や動 物、植物の生命を守るための光の寺である。                   生命が地上に現れたのは極めて最近のことであり、生命がいかにはかない ものであるかを我々は忘れている。人間は、経済成長に酔いしれて、これを進歩といっているが、誤った方向に進んで、我々を囲む自然を破壊している。豊かな 国の一部の人々に快楽と富を集中させるようになっていて、地上の他の生き物すべてに欠かせない大切なものを破壊している。その結果、地上の30%の生物の 種類が絶滅し,海 中では60%が失われたという。今後、この傾向は著しくなるであろう。人間や、動植物は生きるために互いに他を必要とする、互いに共存できるエコシステム を破壊しつつあるからである。地球の長い発展の歴史を見ると、、まず最初に植物が現れて、光合成作用によって酸素を造り、動物の生存を可能にした。現在で…