人生の選択 フランス光明院 融快(融仙訳)

人生の選択 フランス光明院 融快(融仙訳)

Categories: 行事

最後の花、最後の木が切られ、川に最後の魚が無くなった時、                                                                                           人間はお金は食べられないと気がつくであろう。

アメリカインデアンの酋長

 

仏 教が教える生き方の根本は、普遍であって、時や場合によって変わることはない。戦争や平和、金持ちや貧乏人でも、カルマ(因果)の法則は同じである。他の 生き物へのよい行いは幸せをもたらし、悪い行いは不幸をもたらす。長い人生の間には、様々な善悪の行いをする機会に出会う。見ないふりをいたり、無関心の まま何もしないことがある。善い行いををすることを選ぼう、心が明るくなる。仏様は悟りの扉を開く前に、我々の慈悲心を試される。

 

インドの伝説

インドに伝えられている古い伝説に、世界の移り代わりを4段階に分けて人間社会の推移を象徴的に描いたものがある。

第1の世界は、賢者の時代、 修行者たちがヒマラヤの山中に住み、瞑想をする。深い瞑想の力が実世界に及ぶので、地上は一種の天国のようになる。全てが調和のもとに、適時に自然に現れ る。人間の心には自我がなく、執着もせず、強いて意図することもなく日々の働きをする。心に浮かぶままに、その時その場になすべきことをする。

第2の時代は王さまが 現れ、すべての国民が仲良く暮らせるように賢明に政治を行う。階級を定め、知恵ある大臣を指名して、全てが秩序よく行われるようにする。法律家が、みんな が進んで従うような正しい法律を作る。各人が幸せに暮らし、王国で定められた階級に従って、満足している。天によって定められた階級は、王が天の神の子孫 であることを立証するものだあるから、誰も抗議をしない。礼儀、礼節、儀式を大切にし,形式や芸が高く評価かされる。長い間には、雄雄しい男らしさが柔軟 化する。

第3の時代は,武士達が 武器を持って反乱する時代である。互いに権力をつかもうと、各地で争いが起きる。武力、勇敢、巧妙、戦術などが誉められる。国民は軍隊に徴用され、飢饉が 広まり、貧困や死が人々を襲う。一族一党がそれぞれ対立して戦うことに熱中して、大事なことを忘れてしまう。みんなが同じ地上に生まれた人間同士であるこ とを忘れる。対立、憎しみ、恨み, 傲慢心、復讐心がいつまでも心に残る。平和を主張すれば、卑怯者、裏切り者と見下される。

第4の時代は、世界の終末,<カリユガ> といわれ、伝説によると、ビシュヌ-神の22回目の出現、最後の出現があるという。「この世の終わりに、すべての王が泥棒になったとき、宇宙の主が現れる であろう。白い馬の頭をして、カリキと呼ばれるであろう。」「黄金時代をもたらし、悪人らを懲らしめ、有徳者たちに報いるであろう。それから、世界を破壊 するであろう。その後には、その残骸の跡に新しい人類が生まれ出るであろう。」

これらの4段 階には、自己意識、自尊心、欲望が生まれ、人間が尊敬心を持たなくなると、デカダンスが興じて人類の絶滅を招く過程が描かれている。かっては、神に祈るの も自然に祈るのも同じであった。自然は目で見える神の一部であるから、自然を敬うは神を敬うと等しいと思われていた。動物や森の木々に神が宿ると信じられ ていた。自然とのハーモニーの中に生きることに健康と幸せを見出していた。

不安に満ちた世にも平静を保つ

自 分や他の人々の運命を向上させるために一番よいのは、いかなる状況におかれようと、平静の心を保つことである。戦争中、ユダヤ人の女性が捕らえられて、収 容所に入れられたとき、みごもっていた。ドイツ人たちは生まれた子供を殺さず、赤ちゃんを抱いた彼女を見せて宣伝にした。食べ物はほとんどなかったが、彼 女は笑顔を絶やさず笑っていた。ピアニストであった彼女が収容所で演奏するときは、心の喜びを他の人々に伝えるのが彼女の務めであると思っていた。空腹に 泣く子供には、笑って、食べる必要はないと答えていた。極限の厳しい生活であったが彼女は生き耐えた。戦争が終わった後にも、心に喜びを絶やさなければ、 すべての困難も少しずつ解決されると信じていた。希望は絶対に失ってはならない。彼女の固い信念によって、多くの人たちの命が救われた。愛とやさしさに満 ちた音楽を聴いたユダヤ人の囚人達は生きのびる力を見出したからである。彼女は百歳を超える長寿を全うした。                                        周りが騒ぎ、絶望するとき、静かにやさしくするのが最高の贈り物である。世の中の出来事を非難したり怒ったりしない 人がいたら敬意を表したい。心が喜びに輝く人は本当にまれであるから、幸せな運命が開かれる。花が開いて蝶がよって来るように、人が寄ってくるであろう。

 

 

生きるための光

近 い将来、我々を襲うであろう危機の原因は、人間が貪欲から正しい知恵をなくしたからである。 インドのガンジー聖者の言葉に、「地球は人類全部を養うだけ 充分大きい。しかし、一人ひとりの貪欲を満足させるためには充分ではない。」とある。                       光明院は、人や動 物、植物の生命を守るための光の寺である。                   生命が地上に現れたのは極めて最近のことであり、生命がいかにはかない ものであるかを我々は忘れている。人間は、経済成長に酔いしれて、これを進歩といっているが、誤った方向に進んで、我々を囲む自然を破壊している。豊かな 国の一部の人々に快楽と富を集中させるようになっていて、地上の他の生き物すべてに欠かせない大切なものを破壊している。その結果、地上の30%の生物の 種類が絶滅し,海 中では60%が失われたという。今後、この傾向は著しくなるであろう。人間や、動植物は生きるために互いに他を必要とする、互いに共存できるエコシステム を破壊しつつあるからである。地球の長い発展の歴史を見ると、、まず最初に植物が現れて、光合成作用によって酸素を造り、動物の生存を可能にした。現在で は、森林が破壊されたため、空中の酸素が少なくなっている。また、海では、炭酸ガスが水中に溶けて酸化し、プランクトンの生存を脅かしている。将来、酸素 が欠乏すれば、動物は生きられなくらるであろう。                           フランスの天文物理学者で、エコロジストのユ ベール・リーブは我々は6回目の地上の生物滅亡に直面しているという。5回目は、大きな隕石が地球にぶつかって、地核が割れ、猛火が酸素を急激に消耗しつ くしたために、大きい恐竜達が窒息死して絶えた。僅かに小さい哺乳動物が生きのびて今日に至ったという。植物に与える害はすぐには現れず、時がたってか ら、病気などになってあらわれる。現在、地球全体を脅かしている、エイズやエボラはアフリカの密林破壊が直接の原因であることはよく知られている。同様の 現象が南米にも見られるという。                   エコロジストとは、すべての生命、人間の健康と健全な暮らしが最も大切で尊重され ねばならないとみなす人々を言う。工業界では、企業の目先の利益を優先し、安く製造して国際競争に勝つため周りの環境をないがしろにすることが多い。豊か な国の人々の衣料を製造するために、貧しい国では信じがたいほどの安い賃金と労働条件で搾取されている。ベンガラデッシュで起きた工場事故では多くの犠牲 者が出た。経済は人間の幸せのためにあるべきで、人間は国際企業を富せるために仕える動物ではない。                                          仏経の教えでは、人間の身体は極めて大切なもので、悟りに達するためのすべての条件を備えているという。ところが現在で は、経済界や国際企業の権力が大きくなりすぎ、国民の社会を守るための国の自治権力が失われて、人間は製造し消費するだけの機械のように扱われている。政 治を批判する自由は巧みにコントロールされ、封建時代に戻ったようである。社会道徳が失われ、世のデカダンスを助長している。人を雇用し、豊かな国の株主 に利益を配当するために、自然に与える影響や、苦しみを無視することは正当ではない。どの生命も平等、大切である。他を大切にしてこそみんなが救われる。

解決策は精神面,宗教の実践にある

物 質の豊富を理想とした1950年頃のような社会は今では実現不可能である。資源が乏しくなり、とりわけ石油が足りなくなってきている。世界的経済危機は今 後ますますひどくなっていくであろう。失業者が増える一方である。この変動の世の中で貧しい人々を救うために、今こそ慈悲が必要である。物価は上がり、物 は乏しくなるから、もっときりつめて暮らさねばならない時代になった。天然資源と燃料を節約するために、より質素に、経済的に、助け合って、みんなが暮ら せるように心がけねばならない。                                        そのためには、宗教の実践によって、 人間に知恵を目覚めさせ、感受性を繊細にすることである。この地上に生まれたのは、少しでも善を行い煩悩を清めるための、かけがえのない貴重な、わずかな 時であることを知らねばならない。心の煩悩が清められると、宇宙の別の次元の世界が開ける。.感 覚が鋭敏になって、自分の肉体を越えて広がり、宇宙の生命力が感じられる。自然にすべての他の生き物や植物との結びつきと愛を感じるようになる。若者の多 くは、信仰心がない、宗教とは何かを知らないからである。頭脳だけでしか分からないから、宗教は洗脳の一種でしかない、祈りなんか退屈なことだと思ってい る。それは大きな間違いである。祈るのは気持ちのいいもので、続けているうちに自分が変わるのが分かる。地面にうずもれた1つ の種ではなく、枝葉いっぱいに生命とつながった木となる。心のうちの感受性と内面性を育てるには、いくつかの条件が必要である。まず、心を清めるために、 毎日祈ること、静かな心を保つことである。心に平静と喜びを持つと、自然の生命力を内に感ずることが出来る。次から次へと追いかけ求めるより、足るを知っ て満足する習慣を身につけ、健全な生活を送るようにするのが望ましい。欲望はかなっても失望しやすいとよく知るべきである。のどが渇くと塩水を飲むと、飲 めば飲む程のどが渇くと同じである。物事、人々、とりわけ自分自身への執着をだんだんと捨てていくうちに、心身の平静、安らぎが得られる。小乗仏教では、 「あるがままにする、遠ざかる、捨てる。」と教えられている。宗教を知るために知識は必要であるが、表面だけの考察におわり,そ れで満足していては心で深く感じ取ることは出来ない。                     釈迦牟尼仏は、悟りを開いたとき、1つの迷いが浮かん だ。「私の理論は深く、精緻を極めたものである。誰が理解できるであろうか?」それは、自分だけが仏になって、教えを広めることなしに世を去ろうとする、 安易な道を選ばせようとしたマラ(悪魔)の最後の誘惑であった。              私の修行も50年 になる、厳しい行もした、祈る進歩をしたと思うが、精神界とか仏性について、毎日何かを学ばされる。世間の人々は、日々の生活のあわただしさにおぼれて心 の内面を成長させることの必要を感じない。これらの人たちにどのように説明すればよいかが問題である。誰もがそれぞれの人生観を持ってすべてが分かってい ると思っている。しかし、人生の大きな出来事,苦難、死などに出会うと、これまでの信念がくつがえり、疑問を持つようになる。寺院に行って祈りりたくな る、祈れば、必ず救いが得られ、人生が変わるであろう。この物質世界は、次元の違う幾層かの内的世界をかこむ表皮でしかない。すべての概念は実在しない、 空と心の光だけである。光に感謝して、よりやさしく、より愛に満ち、より謙虚になるように祈るのが本当の祈りである。            キリスト教 の聖女、アビラのサント・テレーズは「わたしは祈るとき、神と話さない、愛するから。」自己中心でない、理屈なしの祈りは強いから、清い愛の力がすべての 人々の心に届いて救うであろう。知恵と慈悲を大きくして、世のために尽くすことを目的にした生き方を選ぶ、これが仏教の道である。

人生の選択

ど の子供も神秘で唯一の存在である。子供の心の内に秘められた人間性を知って育成するのが望ましく、子供のためになるからと、考えを押し付けるべきではな い。子供の行為や出来事の意味が、ずっと後になって気がつくことがある。弘法大師は、子供の頃、土で仏の像を作って遊んだと伝えられている。私自身に関し ても、10歳くらいの頃、父がどこかで小さい僧侶の木製の像を見つけてきたのを思い出す。網笠をかぶり鉢をもった托鉢姿の僧であった。私は30歳の頃、妻と東京や関西の各地で托鉢をしたことがある。光 明院の仏像を買うためであった。私達の托鉢姿は、昔の人形とまったく同じであった。                                          何事も自分が決めると思っているかもしれないが、我々の性格は過去世より持ってきているので、それが知らないうちに決定を左右している。 すること考えることに過去世を繰り返す傾向がある。そこにカルマが働いて物事、人との出会いなどとなる。もちろん、意志も必要である。ことわざに言う、 「まっすぐな畝を耕そうと思ったら、星から目を離すな。」「犠牲を払い、集中してこそ、どんな高い望みもかなう。」フリーメイソンのモットーは、「知るこ と、欲すること、あえてすること、口をつぐむこと。」である。確かに、欲することがあったら、綿密な計画を立てて実行に移すがよい。誰かが言ったが、「社 会階級のはしごを1段 上るために苦労した、上ってみたら、はしごはいい壁に立てかけてなかった。」ということもある。人によっては、すぐ飽きて、他に変わりたがる。成功は目標 に向かって集中するかによる。何を選ぶにも何らかの拘束はあるから、行動に移す前に、それだけの価値はあるか?自分のこれまで進んだ道や家族と適応してい るか?充分検討すべきである。我々は日常の行為のなかで、小さなことにも最善を尽くそうと無意識のうちに絶えず選択をしている。こうして自分自身を鍛え、 内に力を蓄える。片つける、掃除する、静かにやさしく話す、人を理解しようとする、食べ物、飲み物は度を越さず、健全な生活をするなど気をつけていると、 心の平静が保たれる。時間やエネルギーを無駄についやしたり、心が穢れるようなことを避けるのも同様で注意したい。すべての行為,言葉、思いは、深層意識 に跡を残すから、後になって蒔いた種を収穫することになる。落ちるはたやすいが上るのは難しい。正直で正しく生きようと常に心がけている人はものごとを投 げやりにしたり、少しの失敗に落胆しない、正しい道を歩む信念を持っているからである。。日常生活では、仕事をしているときも祈りを忘れず、浮かぶ思いを 観察し続ける余裕を持つべきである。切手をはるにもまっすぐにはる。こうして自分自身を鍛えながら現実世界に立ち向かう。

両親の果たす役割

子 供によい躾と教育を与えようと努力する親をもつことは、子供にとって本当にすばらしいチャンスである。中世に行われていた騎士の任命の儀式の際、武器を授 かるが、突然予告なしに、「未亡人と孤児を守れ」と言って、顔を殴られる。他のために尽くすこと、自分のエゴイスムのためでなく高潔な目的のために武器を 使う決心をを忘れないためである。                   <ありがとう、お願いします、すみません>という子供は、他への責任感があり、 自分だけが世の中心でないことを知っている。また、先祖の仏壇の前にお供えをして祈ると、先祖への感謝と敬いを示し、心で結ばれるからみんなが強くなる。 我々の命は授かったもの、不平不満を持ったり、権利を主張するものではない。両親に大事に世話をしてもらったらありがたい、過りがあっても仕方がない、彼 らなりに一生懸命に育ててくれたからと、両親への感謝の気持ちを持って幸せになってほしいと努力すべきだ。子供の頃の悲しみや傷ついた思い出は、この家族 に生まれたのはカルマ(因縁)があるからで、何かを学ぶことがあると思い、毎日祈っているうちに消え去るであろう。           両親は物質面だ けでなく、人生観も教える。明るく、元気のよい母親は、子供が自信をなくしたときには、「小鳥ちゃん、飛ぶのはまだ出来なくても、歩けるでしょう。」と いって励ました。家族は互いが影響しあう共同体であって、家族全体のカルマによって結ばれている。両親が常に祈ったり瞑想をしていると、子供のカルマも清 めるから、子供もチャンスに恵まれ成功する。私は,歓喜天に娘の良縁を祈った母親の願いがかなえられたことを知っている。光明院の日本人の信者の一人、熱 心に祈る人が息子達の成功を招いたのは確かである。二人の息子はそれぞれがパリの大きな店の百人をこえる社員を指揮する店長になって活躍している。祈りで 清められた心は、鏡のように直感的に物事の隠された面も写すので誤りがないし、仏の加護によって予期しなかった困難や罠から守られる。長年の祈りで心が清 められると、自分で欲することなく、すべてがよい時にあるべきようになっていくことに気がつく。

社会生活のあり方

ま ず、よい友を選び、世間の付き合いの選択が大切である。周りに幸せをもたらす人とそうでない人がいるので、早く相手を知ったほうがよい。喧嘩好きの人、嘘 つき、エゴイスト、平気で人をだます人などは避けたほうがよい。よい結婚相手を選ぶことはとりわけ大切である。励ましあったり制したりして長い人生を共に する、人生の重大事といえる。アジアの習慣にあるように、結婚の仲介をする女性が言うには、似合いの夫婦になるかどうかを知るためには、両方の家族を見 る、祖父母にまでさかのぼって会った後、両方に問題がなければ、安定した家庭が築ける二人である判断するという。 毎日の仏への祈りに、発菩提心の真言を となえて、慈悲心を目覚めさせ、他の人々の幸せを一心に祈る。すると、よいチャンスや幸運、あたかも灯台の輝く光が悪運を追い払い、宝船に乗った幸運を呼 び寄せるように、よい友達が寄ってくる。毎日こうして祈ると万事が順調であろう。逆に、憎しみ恨み嫉みなどの暗い思いを持ち続けると、自分だけでなく家族 にも不幸が来る。故松本管長は、「喜びを持つと幸せがよってくる。」といつも言われていた。心から発する光の輝きをさらに大きくするために、浮かぶ思いに 気をつけて、悪い思いにも迷わされないように訓練するのが宗教の実践である。安らぎの心、これが幸せに生き、さらに大きい幸せを呼ぶために最も必要である と思う。私は、深い知恵にあふれ 、よい教え で導いてくださったすばらしい師僧達に出会ったのはおそらくいいカルマのおかげであると思っている。私のインスピレーションの源泉であった。時々メモをし ておいた師の助言は、何年も後になって人生の選択を誤らないために実に大切であったことがよくあった。この世に亡き後も、守り導いていてくださっているこ とを感じる。神や仏は、熱心な信者達を絶えず見守っている。故松本管長は、仕事に行く代わりに聖天様に拝みにお寺に来たある信者について、聖天様が呼んで くださったからでしょうといわれた。私は、若かったとき、自分が自分の意志と知恵ですると傲慢にも思っていた。今では、自分の欠点がよく分かり、仏様を信 じてすべてを任せるのがよい生き方だと思っている。短気で待つことを知らない、失敗を恐れるから強引にでもすぐに手に入れようとするのではなく、毎日なす べきことを最善を尽くしてしながら、生活のリズムに合った生き方をするのがよい。自分を取り巻く環境も人間の内面をあらわすから、身の回りはきれいにかた 付け、清潔で心地よい生活の場を保とう。人生を選ぶとは、自分の意思を主張するのではなく、やさしく謙虚になって、世の中と調和する生き方をしようと心す ることである。

こうありたいと思う目標を持つ

私 は、パリにあった日本の大企業の支社長を知っていた。社長室の正面のドアに正装をした男の絵がかけてあって、顔の変わりにバラの花が描かれていた。社内関 係が潤滑にいくようにやさしくかわいらしい花のようでありたいと思ってのことであろう。我々は、長い間には常に思っているもの、こうありたいと思うものと 一体になる。自分は仏になる途上の人間であると思うと、ビジネスマンとか泥棒と思うのと世の中の見方が違ってくるであろう。だから、結婚式、入学式、卒業 式、成人式などの儀式が重要な意味をもち、人間としてのありかた、ふさわしい行いをする、新らしく生まれ変わることを意味する。仏教では、仏に帰依する、 菩薩の誓いを立てる、教えの伝授の際、いかなる場合にも、反対にあっても信念を守ることを誓う。過去に捉われることはない、大きな過ちも深く反省すれば許 される。フランスの優秀な警察官のひとりは、以前は不良少年であった。すぐには聖人になれない、なんども失敗をするであろうが、達磨さんのように起き上が り努力を続けることである。また、仏とか理想とするものの絵を枕もとの壁に張り、願いをこめて祈りながら眠りにつけば、救いは夢によって知らされる。理想 のイメージを深層意識に焼き付けると,思い込んでいた自分のイメージが変わってくる。さらに、偉大な聖人や世界を変えた偉人の伝記とか思想を読む、身近 な、周りの感心させられる人びとの振る舞い行動を真似ることによって変わることが出来る。毎日、私は師僧たちの写真の前にお供えをして、私に良いインスピ レーションがわき日常の心配事の解決されることを祈る。この世を去られて長年後でも私の心の中では生き生きと感じられ、そちらの世界ではいかがお暮らしで すかなどと聞いたりする。そして、日々の営みに最善を尽くし、敬愛する師僧たちと同じ様な考えや行いが出来るようになりたいと願っている。いつの時代に も、どの流派でも、伝灯の師達は心で釈迦牟尼仏と結ばれることを理想にしている。真言宗では、悟りの世界を大日如来を中心にした曼荼羅で表されている。                                           精神的な出世間にしろ、現実の俗世間にしろ、誰もが実現したいと願 う夢や希望を持ち、それに向かって生るのが人生である。古代インドから伝えられている哲学では、結果のために行動するのではなく行為そのもののために行動 すべきであるという。人間は日々の努力を繰り返すことによって強くなる、考える習慣をつけることによって知能が発達する。無私無欲で親切な行い、小さい行 いを積み重ねることによって聖者になることが出来る。逆境にも勇気を失わず、すべてに終りがある、困難も終わることを思い出そう。我々は一人ぼっちで見捨 てられたのではない。心の中で仏に助けを呼べば、仏の救いは必ず来る。

世界は変わる。

人類の未来を脅かしている大きな危機は、自然環境の危機であろう。ここ50年 ほどの間は、自然、経済、政治の大きな変動に耐えて、順応して生きねばならない。これまでの浪費経済からリサイクルを余儀なくさせられる生活に移るにはか なりの努力が要るであろう。人間が改心して質素に暮らそうという兆しは、今のところあまり見えない。石油資源を使い尽くす自家用車の製造を続けることの無 意味さにいつ気がつくであろうか?海では水位が上昇するから、大規模の民族移動が起こるであろうが、これらの人々を受け入れるためには無限の慈悲心が必要 である。他の人々を救い、世話をし、養うなどの善行は幸せになって帰ってくるというカルマの法は本当であることを常に思い出し、人間同士の友愛を持って危 機に対応せねばならない。世の改革者、学者、技師達、、また、弘法大師のような偉大な宗教家が現れて、あらゆる困難から救われることをみんなで祈ろう。い かなる試練にも恐れず希望を持って生きよう。仏や神の救いは必ずある。理想に向かって生きる道を選ぼう、何もせず、時間つぶしに娯楽にふけるよりずっとい い、生きがいのある人生になる。世界が大きな困難に出会うときには、もっと多くの祈る人々、善意の人々が必要になる。                    チャーリン・チャプリンは、世界大戦の真っ最中の1942年 に、<独裁者>という映画を製作した。下町の床屋の役を演じたが、独裁者(一人二役)に似ていたため間違えられ、最後の場面でした演説は、彼の深い人間愛 とよりよい世界への希望が言い表らわされていて胸を打つ。現代の我々にも励ましになると思うので次に紹介する。                                <我々は、出来たらみんなが助け合いたい。人間はそのように出来ている。子供達に不幸ではなく幸せを与えたい。人を憎んだり見下し たりしたくない。この世の中には一人ひとりが住む場所があり、地球は豊かで人類すべてを養うことが出来る。皆が美しい自由な人生を送ることができる。それ が忘れ去られてしまった。欲望が人間の心に毒を盛り、憎しみの壁で囲ったため、我々を貧困と血を流し合う争いに突き落とした。われわれは速度を征服した が、自分にとじこもっている。機械が富を生み出すが、我々は不満足のままでいる。知識が我々を冷笑させ、知能ばかりの非人間にした。考えすぎで、感じなく なった。あまり機械化され、人間性がなくなった。知識がありすぎて、やさしさと親切がなくなった。これらがないと暴力が世にはびこり全てが失われる。飛行 機とラジオは我々を近ずけた、私は善意と世界的友愛を呼びかける。いま私の声は何百万の人々、無実の人々を投獄し拷問するシステムの犠牲になって、絶望し ている男達、女達、子供達に届いている。いま聞いている人たちに言う。「絶望することはない、我々の不幸は貪欲、進歩を疑う者達の苦い思いから生まれた。 憎しみは消える、独裁者は死ぬであろう。人民から奪った権力は人民に帰るであろう。自由のために死ぬ人間がいる限り、自由は滅びない。」兵隊達、人を軽蔑 し、弾圧し命令を下す少数の人間のいうままになるな。誰がすること、感じることを命じるか?誰がてなずけた家畜のようにあつかったり銃弾の的にするか?頭 脳と心が機械で出来た非人間の生き物に負けるな。君達は機械ではない、動物でもない、人間なのだ。彼らのような非人間、愛のないものを憎むな。兵隊達、奴 隷になるために戦わず自由のために戦おう.                                        聖 ルカは「神の王国は人間の中にある。」と書いている。一人の人間ではなく、ひとつのグループでもなく、人間全部の中にある。君達の中にある。幸せを生み出 す力を持つ君達なのだ。君達は自由に美しい人生、すばらしい冒険に変えることが出来るのだ。民主主義のために、皆が力を合わせよう。新しい世界のために戦 おう。みんなに仕事を、若者達に未来を、安全を老人達に与える公平な世界を、その約束をしたくせに人でなしたちが権力を奪い、うそをつき、約束を守らな かった。これからも守らないだろう。独裁者達はしたい放題をして、人民を縛り付けている。いまこそ、約束を実現させるために戦おう。憎しみと不寛容から世 界を開放するために戦おう。理性ある世界、科学と進歩がみんなに幸せをもたらす世界のために戦おう。兵隊達、民主主義の名の下に団結しよう。>

 

終わり

Yukai Senseï.

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