慈悲心の目覚め

慈悲心の目覚め

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慈悲心の目覚め (発菩提心)
フランス光明院主 融快ダニエル ビヨー
訳者 融仙

2020年は伝染病 COVID19が世界中に広まり甚大な被害を及ぼしている。フランスでも
不意を打たれた医療従事者たちは極めて困難な事態に直面し、身を守るためのマスクや防護服
は国内での調達が不可能で有様であった。なぜなら医療具の殆どが中国で製造されていて、そ
れらの中国製品はUSAへの供給を優先としていたからである。にもかかわらず、病人を治療し
て苦しみや孤独から救おうと熱意に燃えた医者、看護師、介護の人々は、自分自身や家族への
危険をかえりみず日夜献身し続けた。なかには病に倒れた人々、命を落とした人々も多くあっ
た。世界各地で献身的に貢献された人々、犠牲者たちの勇気に心からの敬意と感謝を込めて祈
りを捧げたい。
こうした惨事を見て多くの人々は経済のグローバル化と国家間の相互依存のありかたに強い疑
問を持つようになった。
フランス共和国のモットーは”自由、平等、友愛”である。国民が暮らしやすく強い安定した国
となるための正義ある社会を築くために掲げる理想である。
慈悲は他人の苦しみに心打たれると自ずから生まれる感情である。人間のみならず全ての生き
物へ愛と優しさ、好意をすすんで育てるようにすると慈悲心は一層大きくなる。弘法大師のお
言葉に”この世の縁なき生きとし生けるもの一切を見るに、あたかもおのれの身体を見るように
見る。善き人の用心は他を先にし、おのれを後にするからである。”とある。


緑色をした小さい毛虫の話

ある朝、入り口の扉を開けると緑色の毛虫が私の方に向かって来るのを見た。”緑は悟りの色、
幻惑のベールを脱いで我見を捨てると真実が見える。”と歌いながら無数の手足を動かしてやっ
てくる。
一体何を言おうとするのか不審に思って毛虫に声をかけた。”遠い国から来た君は何を求めてい
るの?”私はきっぱりとした声で言ったつもりであったが、内心は多少不安であった。
”悟りを探している。でもこっちに美味しそうな若葉の香りがしたので腹を満たそうと思っ
た。”
”悟りと食べ物とどっちが欲しいのか?君は毛虫にしてはかなり肥っているからそろそろ繭を作
ることを考えるべきだ。食べ物は悟りにはならないが、悟りに到達する助けにはなるだろう。
確かに安心して静かに生きられるのが何よりだが目的は蝶になることだろう。””蝶って
何?””君の身体が今と違ったものに変わること。そうすれば全く違った世界が見える。遠いと
ころ、深いところ、君がこれまで知らなかった沢山の生き物が見えるようになる。それが君に
とって生きる目的だ。このまま成長していきなさい。今の君にもそれなりの価値がある、君は
もっと成長するだろう。阿字はあらゆる真言の根源だ、心に”あ”を繰り返して唱えなさい。真
実を探す君よ、体に気をつけて、さようなら。”この勇敢な毛虫をそっとつまんで植木の間に咲
いていた花の上に静かにのせた。

現実の存在について
その夜、いつものように、眠る前にその日の私の言葉と行動を思い出して反省した。小さい毛
虫に分かりやすく教えたであろうか。彼の信念と清純さには心打たれるものがあった。”空”に
ついて説明するべきであったかもしれないが、要点だけ言って気を散らさせるのを避けたつも
りだった。心に白い月輪を思い浮かべて瞑想することを教えてもよかったが、毛虫はどこに心
があるのだろう。人間が見るように月は丸く清らかに見えないかもしれない。我々とは違う感
覚、例えば嗅覚が鋭く発達しているであろうし、脳の構造が違うので見方が違う。むしろ我々
が現実と思っているのが相対的な世界観でしかない。全ての生き物はそれぞれの脳の発達如何
によって物事を自分なりに把握し理解している。
仏教では唯識論がこの世の全てが意識のみからなっている、現実というものの実在はないと言
う。人間は必要に応じて物事を言葉で言い表す、用いられる言葉は人間が理解できて生存に欠
かせない物事の為に造られたものである。美しいとか魅されるか否かを感じ取るのは心であ
る。
もっと科学的に世界を知ろうとするにはより一層客観的に観察せねばならないであろう。
真言宗の大切な儀式である灌頂に、師僧が弟子に丸い鏡を見せて”諸法は本来空である”と言
う。
物体は緻密に固まった物質からなっているように見えるが、実際には極く小さい素粒子が空中

で中核の周りを急速に旋回しながら電磁波を出し合っているのである。宇宙全体は光である、
実体は”空”である。我々の見る世界は我々の限られた知識と感覚でで築き上げた幻覺でしかな
い。ひとつだけ確かなことは、小さい毛虫、人間、山河は本質的には同一である、絶え間なし
に渦巻いて回る光の素粒子によって移り変わるこの世が実在するという幻覚が作り出されてい
ることである。
瞑想を実践して修行を続けると、一般的な五感”視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、”の他に更に
進んだ感覚が目覚める。光によって織り成される宇宙の異なる次元の世界を見ることが出来
る。我々と同じように発展し成長している多くの生物の存在を発見するかも知れない。仏教で
は仏の極楽浄土を説く、阿弥陀仏の西方浄土、薬師仏の東方浄土と言うも単なる伝説や迷信で
はない。我々の意識が生存中または死後に達して発展をし続ける次元の一つである。
すべての仏道修行は、はかないこの世の幻覚を認識すること、この世だけでなく他の世界から
も開放されることを目指している。ただ祈るだけではなく、我々を閉じ込める世界観を抜け出
ることを目指さなければならない。
魚にとって陸に生きることが出来るとか、地上の生活はどんなか想像できるであろうか?
我々各自が内の目覚めの度合いによって違う世界の見方をする、自分は全部分かっていると
思っている。心をもっと開いて時々自問するが良いであろう。

魚の哲学 (イスラム密教 スフィー派 の伝説)
魚たちの間に”全ての魚は水というただ一つの源泉のおかげで生きている、呼吸している、暮ら
している。”と言う話が広まった。”大海に暮らしている我々がまだ一度も出会ったことがない
のはどうしてだろう?どうしたら会えるであろうか?”様々な意見がかわされて大騒ぎになっ
た。ついに、深い悟りを開いて真実を知っているという賢者の年老った魚を訪れて救いを求め
ると、
”何一つとして水でないものがあろうか。全てが水から生まれて水に帰っていく。我々は広大無
限の水の大海の中で生きている。我々はその水の現れの一つであることに気がついていないだ
けの話だ。皆が水を知りたいと努力しているのも水自体が自分を探し求めているからであ
る。”と説いた。
人間は清らかな心の大海に取り囲まれて生きているがそれを知らないでいる。言葉で言い表す
ことが知ったことにはならない。言葉は相似、対立、相違を生み出すし、頭脳は昔からの定義
(意味)、イメージ、感覚などに基づいて判断をする。本当に知るには、言い表すだけではな
く内的体験に基づかねばならない。心に安らぎをもたらす絶対的な真理を知るためには普通一
般的な知識を超えて我々を囲む光の大海を感知せねばならない。
人生を通して誰もが探し求めることは神や仏と一体になることである。この世での愛や欲望を
通して一体化を目指して進む。人生とは、自己を忘れ宇宙の絶対愛に向かう内的前進の旅であ
ると言える。まずエゴの殻から抜け出さねばならない。そのためには心身の各扉を開いて清め
る。各部分から無知、エゴイスム、暴力などのベールを除いて清める。
絶えず浮かぶ取りとめのない思いに固執せず、なるがままに任せ、この世の物事を映している
周りの光を吸い込むだけで良い。インドの伝統では修行者は”プラナ”と呼ぶこの光を吸う修行
に重きをおいている。我々を取り囲む仏と我々の心と全ての生き物の心は視野を変えてみれば
同一である。大海の波が別々のように見えても本質は同一体であると同じである。
この一体感を体得するには、世界を見るに善と悪との区別せず、比較したり対立させることを
しない。喜びの心と授かっている愛への感謝を持って生きていると速やかにすべては一体であ
ることが感知できる。

心、空、菩提心は同一体である。(大日経)
我々に本来ある仏性”菩提心”は虚空のごとく広大無限で清浄無垢であり、形も色も質量もな
く、この世のいかなるものにも例えられないものである。何事にも動揺されず静かに澄みきっ
ていて悟りへ導き到達せしめる。この世の全ての根源であって、これが”空”の本質であるとい
う。
内なる悟りを開かれた高僧方は皆、暖かい愛と宇宙の生命との交流を感謝の念をもって語って
いる。
取り囲むすべての物の本質が物理学で実証されているように光であることを知れば、我々に見
える世界、物事は映像、心の創造物であることがわかる。
内なる悟りを実現しようと思ったら、無益な思いや世間の騒音を避けて自身の心を見つめる静
かな生活をおくることが望ましい。愛他の心を持って、祈り、瞑想すると慈悲心が大きくな
り、周りの光を感知出来るようになるから光の中で安らぎある生き方を学ぶ。すると直感力が
目覚めるし賢明な智慧が浮かぶようになる。さらに進むと大菩提心になり悟りに到達する。人

格も磨かれるので社会的にも成功者となるであろう。
仏道の修行者は4無量観という修行によって自身を磨くことに努める。無限の愛、無限の悲、
無限の喜、無限の捨により心を清め全ての人々のためにつくす決意を固める。世界中のどの宗
教も自心の清めが最も大切であると教えている。
真言宗では三密瑜伽といって身口意(行為、言葉、心)を清めることを修行する。毎日続けて
実践すれば自ずから自我が消えるので内面的に同時に社会的にも大きな成果を実らせることが
出来る。目覚めた者となって宇宙は愛に満ちた光の大海であることを体得する。

仏はいたるところ、我々一人一人の心の中におられる。(弘法大師)
弘法大師の教えに”仏法は遠くになく、すぐ近くに、心の中にある。明暗は外にあるのではな
い、信修すれば速やかに悟りが開ける。”とあるように、仏を外の探しに行くのではなく自分の
心の中に探す。自心を見つめて、喜んでいるか?悲しいか?苛立っているか?安らかか?注意
深いか?寝ぼけているか?等と観察する。”全てが心から生じる、物事は鏡に写った映像のよう
なもの。”という。
我々の本来持っている仏性は外部からの影響や内に起きる感情によって絶えず隠されている。
清浄な月を浮かんでは消えて流れる雲が隠すのと同じである。表面の見かけだけにとらわれず
心の中の月を見ていれば清浄無垢の”空”の静けさの中で何事も冷静に判断することが出来る。
世間の人々にまじった日常生活の中では非常に難しいことで、往々にして雲に気を取られてし
まう。この道での向上を目指すなら、全ての人々、善い人、悪い人にも自分のために良かれと
いう仏のはからいの表れだとみなすことである。不動明王の使者たちの中では優しいコンガラ
童子と厳しいセイタカ童子がよく知られている。自分本位でなく他の人々にも耳を傾けるよう
にしないと何もわからないままに過ぎてしまう。宝山寺前管長、松本実道大僧正は”自分の心の
奥深くに気をつけよう。謙虚な心が他のために働らく知恵を目覚めさせる。””謙虚さを忘れた
知恵のある人間ほど恐ろしいものはない。””科学万能で思い上がって原爆を作った。環境破壊
や公害も、自己中心の人間の欲のなすところである。”と言われている。愛、謙虚さ、優しさ、
心のこまやかさは静寂の中から生まれる。人格向上のために磨くべき美しい長所である。
心が成熟すると他を理解し、その求めることがよく分かるようになる。平静を保って迷うこと
なく互 いに理解し合い助け合えば双方の心が豊かになる。心の内から愛と光、仏の知恵が
輝き出ていると、自分では気が付かなくとも他の人々は感じ取って親切にしたくなるのも自分
の心のあり方が他に反映したからである。こうして人々に幸せを発信する基となることが出来
る。
私は常に聖天さまに祈っているが、難しいことがあったり、困った時に助けを受けたことがよ
くあった。聖天さまのお助けで必要な本とか、光明院の建設の手助けとか、資物や金銭的援助
などを人々から進んで提供して頂いた。間違いがあった時、正しい助言が聞けたのもありがた
かった。
真の友愛は、心を開いて交流し合い、仏となるための成長を目指す人々が互いに力を出し合っ
てより良い世界を築くためにつくすことである。
”一人がみんなのために、みんなが一人のために”(三銃士 アレクサンドル、デユマ)
”仏と衆生は同一の心、これより他の現実はない”(中国9世紀の禅僧 黄檗希雲)

感謝の心
私の師僧 青木融光大僧正は日頃世話になった人々、使用した物などへの感謝をよく話されて
いた。電車や車にも降りると振り返り頭を下げられていたのを見た。青木先生のどんな動作に
も気高さがうかがわれ、人の悪口を言われたのは聞いたことがない。絶えず仏に感謝して”我々
は自分で生きているのではない、生かされているのだ。生きることは素晴らしい。この喜びの
心を世に伝えたい。”と言われていた。私の数多い日本滞在中にお近くで過ごした日々は人生で
最も幸せな日々であった。青木先生には古代ギリシャの賢者の生き方を思わせるものがあると
私は思った。今でも感謝の念を持って思い出し、少しでもお人柄に近づけるようになりたいと
思っている。敬愛する立派な師は人生のモデルとなる、心と心を通じてつながるから自分の内
の最も崇高な資質が伸ばされる。
仏道の修行には師によって導かれることが最も大切である。以心伝心と言って大切なことは言
葉ではなく心から心へわるからである。弟子が師僧を尊敬すると心が開いて内的成長を促して
悟りへ導かれる。仏はどこにもすべての中におられる。まわりの全てに敬意と感謝の念を持っ
て仏を見出すのは我々の務めである。どんな出会いにも感謝をするようにすれば日常生活が仏
との出会いの修行となる。
修行のなかで最も難しいことは身に染み付ついた物の見方や考え方の悪い習慣と戦うことであ
る。自己中心で自分は世の中のことをよく分かっていると思っているエゴの殻を破らねばなら

ない。
食事の前に感謝して祈ることは大切な習慣である、食べられる動植物の苦しみを和らげるため
に祈りの功徳を捧げることが出来る。全てが自分のために当然だと思って無知と自尊心から自
己の殻に閉じこもっていると愚か者になる。心に感謝と謙虚を育むことは人間形成上最も大切
なことである。
こうした広い心を持つと他とのより良い交流が出来るようになる。偉人たちの伝記を読んだり
謙虚な宗教家を訪れたりして自心の向上の助けとする。時として教えの肝要は極めて簡潔に約
められている。現代各地で活躍されているべトナム人の僧 テイック ナト ハンは”毎朝私は
愛の眼差しを世界に向ける、そして微笑む。”と言う。
1世紀頃のギリシャの賢者エピクテートは正しく話すことの大切さを説いている。”話したり答
える前に言おうとすることが真実か、正しいか、必要か、上手に言えるかを自問検討すべき
だ。”と言った。また初めての訪問者がギリシャで賢い哲学者を知らないかと尋ねると、エピク
テートは自分とは言わず他人を推薦した。”優れた賢者の証は、誰も咎めず、不満を言わず、褒
めもしない。のぞみ通りにならないことは自分のせいにする。何事にも夢中になることなく静
かで従順である。人から無知、馬鹿と言われようが傷つかない。自分を罠に落とそうとする一
番危険な敵とみなして自分自身の監視を終始怠らない。”

大日如来の光は法界に満ちる
真言宗の教えでは我々を取り囲む宇宙は大日如来の法身であるという。全ての生き物とあらゆ
る物体の心身を構成している智慧と感受性を備えた広大無限な光の大海である。その智慧は
我々人間の小さい世界とは異なる次元に働いている。全ての生命を管理し成長させている大生
命の叡智の目的や手段、時間は到底我々の理解できるものではない。心が開かれると少しずつ
近づいて目覚めに達することが出来るようになる。世界中の全ての宗教が各自の見方で述べて
いることであるが、どの道に限るとは限定していない。想像できうるあらゆる言葉やカテゴ
リーを超えたものである故に”空”と言っている。この生命力は全てに深く浸透していて一つ一
つの生き物を細やかな配慮でもって見守っているし、自然の中では秘密の言葉で語りかけてい
る。我々には、外の騒音や饒舌から離れて心静かに精神集中出来た時この生命力を内に感じる
ことが出来るようになる。
困難や悩みがあったら、寺院にお参りするか自宅でも真言をとなえるが良い。大慈悲の観世音
菩薩が聞き取り誰かを使者として救いの手を差し伸べてくるであろう。一人ぼっちではない。
見捨てられてはいない。祈り続ければ必ず聞きとられる。使者はなんとなくその気になったと
か言うかも知れないがお礼を言えばよい。人は往々にして神や仏、人々とは別べつに生きてい
ると思いがちであるが同じ水からなっている大海の波のように、我々は皆と同一であり縦横に
結ばれている。
あらゆるものごとが大日如来の表れであるといっても、万事順調のときには受け入れやすく、
不正や不愉快な事態の場合にはそれが大智の働きとみなすのは難しい。なぜなら心の奥に執着
があって我々を成長させるための仏のおはからいであると認めることを拒否するからである。
子供がおもちゃに、大人が家族や財産に執着するも、全ては幻覚で無常、はかないものである
ことに気づいていないからである。
内面的精神生活を深めると新しい生きがいが見出される。他の人々へと同時に自分自身への愛
が生まれ、何事にも耐え深刻に考えることなく、他人や地位とか外部の状況に執われないで生
きられる。人生は善と悪との戦いではなく愚かさとの戦いである。怒りは何より自分を傷つけ
るし健康に良くない。恨みや憎しみを持ち続けない、否定的考え方を捨て慈悲心を大きくする
のが正しい生き方である。乱暴な言葉にもすぐに反発しない、望ましい世の中のあり方に思い
を集中するのが賢い。誰にも欠点はある、一時の動揺、過ちだと思って気にしない、話を聞い
てあげてなぜかを知り出来れば助けてあげる。どんな人間でも努力をして自分の得意な技とか
長所を伸ばそうとしている。仏になるであろう人間と思って悪事を見るより善を見れば、自分
も忍耐と謙虚さを学ぶし相手も後悔するかも知れない。
”レ ミゼラブル”というビクトール ユーゴーの小説に神父が脱獄者を彼の持っていた銀の燭
台は盗まれたのではなく差し上げたのだと言って救った話がある。そのひと言からジャン バ
ルジャンはすっかり善良な人間になり多くの善行によって社会に貢献し人々を救った。
世の中は微妙なものである、融通性を持ち信頼しあって生きるように努める。幸福は必ずしも
良いばかりではない、不幸は決定的ではない。幸せを外に求めていると起きる変化によって自
分の弱点に気ずかされ学ぶことがある。外へのよりどころを失うことから内にある神仏に救い
を求めようになる。
望み通りになると嬉しいし世の中は素晴らしいと思う。それが反対だと悲しく不安になる暗い
世の終わりのように考える。こうした心のあり方に応じた人やもの、出来事が寄ってくるのが

習いである。
何事にも喜びと感謝の心を持つようにすると、幸せが寄ってくる、仏のご加護が得られる。
”災い転じて福となす”の諺がよく言い表している。生命のつながりの意味をよくかみしめ心を
こめて祈るべきである。

執われのない心
仏教では世に執着しないことを説くが無関心になることではない。”愛することからこの世に生
きる力を得る、美しくする、世界をより美しく見るようになるではないか。それより我々の執
着について思い巡らし学ぶべきである。”愛すると執着するとでは大きな違いがある。後者はに
独占したい、思いどおりにしたいと言う気持ちが潜む。愛に固執すると相手に執着、依存し
て、捨てられるか失うかという本能的恐怖が生まれる。と言って愛してはならないというので
はない、自己中心や自分の家族だけへの愛を大きく広げて人類全てへの愛にする。心に喜び、
慈悲、愛を大きくするとエゴのを殻から抜け出て大生命と直に交流出来るから家族や一人の相
手に依存することはなくなる。ある高僧は敵のためにも祈るべきだと説かれている。こうして
俗世での欲望を昇華することに努めると仏性が磨かれる。
増一阿含教にお釈迦様が説かれた解脱のための3つの実践がある。”空を瞑想する。無目的を瞑
想する。無思考を瞑想する。”である。空とはすべての物事は幻惑である。無目的とは全てに何
も求めない。無思考とは全てに思い巡らし言い表そうとしない。こうして心は物事を二元的に
見ることなく光のように清浄無垢となる。祈りとはこの清い光を静かに呼吸することである。
つまり目的もなく欲望もなく形式もなく上達したいという欲さえもないままにいることであ
る。
中国8世紀禅宗の祖 馬祖道一禅師は”心が仏である。”と説く。”仏法を探すものは何も探すこ
とはない、心の外の仏はない、仏の外に心はない。善を好まず悪を憎まない、清濁の両極端に
固執しない。おかした罪も空である、三界は心でしかない、心そのものの存在はなく形あるも
のを通してしかない。しかし現象と絶対とは互いに妨げあっているのではないことを知ってお
かねばならない。”という言う。
悟りは普通一般の人間の言葉や考えを超えたものである、仏教を理解するために学者になる必
要はない。ある宗教に伝わっている話に、悟りを開くために厳しい修行を積んで得意になって
いた修行者があった。ある時、神様が現れてもっと立派な人がいると告げた。早速訪ねて行く
と小さな店の靴直しの職人であった。忙しそうに働いていて祈る暇もなさそうであったのでど
うして祈るのか聞くと、毎日大勢の人が店の前を通るのでその人たちのために祈っている、そ
して神様に感謝すると謙虚に答えた。
日本では、托鉢をする僧たちは道に立って通る人々のために祈る。頭にかぶった編代笠には
”迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北”と書かれてある。

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