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宇宙と一体になる道

  宇宙と一体になる道       フランス光明院主 融快           <最大の敵はエゴ(我)である>             ダニエル ビヨー                                        訳者 融仙 コロナ禍での一年間、外出自粛など様々な制限の下で在宅生活を余儀なくされた。都会で狭いマンシヨンに一家で暮らすのは容易ではない。家族の間で衝突や口論が起きることは避けられないし、青少年の間に極度の鬱状態に陥った例が幾つも報告されている。我々は自由でないと息が出来ない、くつろげない、自己の生在感を意識して幸せに生きるためにも他の人々を必要とする。 しかし、修行に励む僧たちは閉じこもりの生活をし、時には一生隠遁生活送る僧もいる。孤独の内に悟りを開いてより大きい喜びを体験するためである。この相違は何処から来るのであろうか? 前者は、都会の喧騒の中で感情的な高揚を求める、さもないと生きられないように思っている。後者は、孤独と静寂の中で仏とのふれあいを深めて内の感受性を大きくすることを目指す。 仏教の教えの第一は苦しみは全てが避けられない無常によるという真実である。しかしながら宇宙の生命力は我々一人一人の生命に宿っているので日常生活の楽しみや欲望なしには生きられない。欲望には俗世で自身の外に楽しみを探すと、内なる人間性の本質を知ろうとする出世間の欲望とがある。前者は人や物とへの愛着が生じ執着することから苦悩の源になる。後者は自己のエゴが生み出す世界の幻覺から開放されて心清く静まり安らかさを得ようとする。生命は存続のために動物的情愛を必要とするがそれに伴う苦しみから真の安らぎを得るにはこの世の原始的動物的見地を超えねばならないのはあきらかである。問題は瞑想や祈りによって内的成長をなし遂げるには、時間、静寂、集中力を得るためにこの世の幾つかの楽しみを断念せねばならないことである。こうした人生の進路の選択には大きな勇気と決意が必要である。精神修養の道は心を開花させ真の幸せをもたらす。 キリスト教徒は永遠の生に生まれ変わると言い、ヒンズウ教徒は二度生まれると言っている。つまり瞑想によって内的視野が広まり我々の生きているこの世と同時に異なる次元の世界を知ることが出来ることをいう。人生観が全く変わってくるのでこの世で幸せに生きるためにも大いに役に立つ。 慈悲心が目覚めると人と人との結びつきを知り、限りなく多い各エゴの裏にある一体性が分かるようになる。自分にも自信がつき他の人々とも和を持って生きることが出来る。 そのための精神修行を実践し進歩するためにはまず信仰心を持つことである。 神と仏の存在についての考察 宗教の歴史を見ると、人類の進化の段階に伴い世界を知り理解する仕方が変わるので同時に神の概念が変わってきている。現在の科学者たちは世界の創造は138億年前に遡るビッグ、バンによるという。巨大な黒い穴に凝縮した光の大爆発である。数秒の間に素粒子、続いて水素、ヘリウムの原子核が生み出されて現在の宇宙が構成された。太陽に近い虚空の何処かに灼熱の球体が生まれ、後に地球となった。地球に生命が現れたのは今から63億年前である。はじめは水中の単細胞であったが幾多の種類に分化し増殖するにつれて感覚と知識が発達した。科学のみで理解しようとする人たちはこの創造を偶然としか考えない。全体を築き見守った偉大な建築者の存在を知らない。多種多様な生命体は輝くエネルギーのもとで完全なる和を持って世界中に生まれたのである。しかし、隕石の落下や火山の噴火によって生物の絶滅は何度も繰り返された。 その後人類が出現し、世界の動きを知ろう、有利に利用しようとするようになった。自然現象を説明するに、太陽、水、風などの多くを神々として敬い食べ物や動物等の供えた。戦争の勝利のために人身の生贄をすることもあった。 インドでは、創造神ブラフマ、生命を保持するインドラ、破壊神シバの主なる3神が祀られている。キリスト教では唯一最高の神が7日で世界を創造したと信じた。人間はその最上位にあって動物は全て人間に仕え食料となるだけの存在であるとした。神は悪人を懲らしめ善人つまり信者に報酬を与えるという。その世界観は実存的であって魂の本質を心理的に説明することはないが、聖霊が存在するという信仰は仏教の瞑想によって到達する空の概念に共通する。 仏教は他の宗教と異なり、全ての生物は同一の仏性を備えているという平等性の見地に基づいている。創造に働いた輝く叡智は神、仏といい大日如来と呼ばれて、全ての生物の心の中に存在している。物体にも同じ光から生まれた原子から作られている故に存在すると言う。すべてを同一の愛に包み込む、差別や優先することのないシステムである。真言宗では世界は仏の身体、音は仏の言葉、大きな叡智は衆生の思いに表れているとみなされている。全ての人間は持っているのに見ることも意識することもない仏の叡智に気が付かないでいる。だから助け合う代わりに対立しあうことが絶えない。 始めは残忍で厳しい世界に一人で直面していると思って生存の危険や不安から身を守ろうと思いのままに無謀に振る舞うが、激しい苦痛とか立派な人との出会いから信仰心が芽生えることがある。不条理に思える世界で途方に暮れていた人間も祈るようになる。 ドストエフスキイの小説”カラマーゾフの兄弟”に神父が極悪人の前に跪いて祈る場面がある。周りの人たちは神父が盲目になったかと驚くが、神父は”間もなくこの男の上に降りかかる罪の贖罪の苦しみと懺悔してこれまでの生き方の過ちに気がつくように祈った。”と説明した。神仏の存在を知る第一歩は懺悔することである。心を清めて煩悩をしずめることによって感受性をよみがえさせるために心から祈る。 神経生理学者によると、心臓には動植物の生命のエネルギーを直ちに感じ取る鏡の細胞と言われる細胞があるという。心は言葉や理屈がなくても光のように放射して知りたいものと一体になる、距離の離れや大きさは問題ではない。このような知覚は深い瞑想の際にも起きる現象である。互いが深層意識によってつながっているからである。例えば、愛すると相手の感情は直ぐに感じられるから偽ることは出来ない。キリスト教の新約聖書には”心の清いものは幸せである。神を見るから”とある。 弘法大師の十住心論には心の清められるに従って発展する10段階が説かれている。 毎日仏と法の教えと僧に帰依して調和ある身口意になるように祈っていると心身が落ち着きやさしく穏やかな人間になるので日常生活にもより良く導かれるし、思いがけない神秘な出来事により現実問題が予想外に発展して解決することがある。   ある時、高野山で仮設の小さな小屋の前の庭を耕していた老人を見た。庭の話を少しする内に親しくなりフランスに寺を作っていると言うと、八祖画像を描こうと申し出された。老人は著名な仏画師で高野山に来て大塔の壁画、金剛峯寺の仏画などを描かれていた菊池先生であった。フランス光明院はこうした思いがけない出会いや信者たちからの親切な申し出でほとんどが整われている。 仏は、世界を生きた生命体のように加護している。こうした出会いを与え、功徳のあるなしで罰したり褒めたりしない、原始から人間の心に宿る生命の力である。普通の人たちは苦しみ喜びは偶然と思うが、信仰心のある人は仏が俗世の幻惑から我々を開放する智慧を授けることを知っている。 いつか日本で、若い女性が神道の祈りをして母なる太洋に感謝するビデオを見た。彼女は福島の津波で家族を失ったにもかかわらず感謝して祈っていた。苦しみはエゴを動揺させるが魂を目覚めさせる。  エゴの構成の仕組み エゴとは、意識しなくとも内に残された数々の思い、漠然とした感情、自尊心や見栄から表面をつくろう習慣などが混じり合って成り立ったものである。我々は生まれて以来の蓄積した思考によって自分で築き上げた確信の上に生きている。厳しいしつけや教育によって植え付けられたり、逆に放置されたりした体験のたびごとに浮かんだ思いも加わっている。自分の信じる世界観と行為に基づいて構成された人間性によって日常生活での選択や人生の進路を決めたり他人に対している。エゴの外殻には長い間の様々な感情が積み重ねられ混じり合っているので、突然何の理由もなしに気分が変ったり、自分をとりまく雰囲気を明るくしたり、暗くしたり、固くしたりする等変えるのを周りの人たちはそれを直ぐに感じ取る。その上日常の思いや心配事が絶えず周りに渦巻いている。ラジオの音波が世界中を巡っているように、思いは遠くまで発信されている。それに答える他の人たちの思いが帰ってくるのでまた新たな感情を刺激する等の繰り返しで際限がなくなる。幾多のメデイアが発信する情報や宣伝が我々の意識を汚染している。実際に政治問題とか隣人同士の争いなど我々の心の内の仏性を目覚めさせるための精神修行と関係のないことである。幻惑でしかない。 都会の喧騒にはあまりにも貪欲、怒りの思いが多く激しく混じっていて重苦しい、そこを離れて田舎で静かに暮らしたほうが容易に自身の本性を知ることが出来るであろう。 中国の聖者孔子の言葉に”生きるはひとつの術である””山のように固く水のようにしなやかに”と言う。私はこれを道徳を固く守り柔軟性を持って安らかに生きることを意味すると思っている。 日本である日、95歳の老婦人に何を人生に期待するかと尋ねたら水面を静かに眺めているきれいな鯉の絵を見せた。くよくよせずなるがままに生きると言う。健康に幸せに長生きをするにはずっと先までの計画をたてないが良い、何かを成し遂げたいと思うだけで緊張感が生まれる。失望や動揺があろうと一日一日を丁寧に生きる。 エゴのなす働きとその影響 エゴと欲望を捨てきるのは容易なことではない。我々の内にある生命力は様々な手段で欲望をを満たすように絶えず要求する。”もっと欲しい、もっと多く欲しい”は動き回っていないと死ぬかのように恐れるエゴの策略である。自分の欲望を満たすことが成功した証であると思うのは間違いである。人はメデイアの宣伝に操られているが欲望の多くは無駄なことであるを知るには全部試す必要はない。他人の目を気にする上面だけの生き方は虚栄心を大きくし、おもちゃを欲しがる子供と一緒である。 心理学では深層意識に跡を残すおもな人生体験として拒絶、放棄、貶め、裏切り、不正をあげている。エゴはこうして傷ついた体験を繰り返さないために型にはまった行動を取るようにしむけるが深層意識に押し込め隠された苦しみが取り除かれないでいると正常な社会的行動は不可能である。恐れ、恥、怒りが加わり未成熟な人間のままでいるので他の人々を理解したり、悪人をすばやく見分けて身を守ることが出来ない。子供の時に両親の乱暴に苦しんだことから生涯をとおして同様に乱暴な振る舞いをするひとがいる、愛することを知らないからである。愛するとは心を開き優しく話すことである。エゴは自分の存在感を認めるために必要であるが、集団の中で他と一緒に、敬意を持って生きることも大切である。孔子は”人に生まれるのではなく、人になるのである”。と言って礼儀と敬意は社会人として世の中に和を保つために大切であると説いている。世間は自己統制が出来るかを試す良い試練の場である。人々のために献身する宗教者たちは時々一人になって祈って力を蓄える必要をよく言う。心の手入れをしないと安らぎを保つことは不可能であるからである。意識するしないとにかかわらず欲求不満や不安が昂じると挑戦的になるエゴは目的の達成のためにいろいろな策略を用いる。 インドに伝えられている神話に、絶えず変わる欲望との戦いを例えた戦争の女神ドウルガと悪魔の王アヒサアスラとの戦いの話がある。虎に乗った女神を悪魔はまず水牛になって襲う、次にライオンになるが殺され、高まる欲望のままに剣を持った人間となりさらに女神の首を長い鼻で締め付ける象になって抵抗する。その時女神が舌を出すと悪魔は半分水牛半分象になってついに最終的に殺された。これらの動物はよくある人間の奥に隠された動物的本能、欠点を象徴しており乱暴、自尊心、操る、虚偽、頑固な片意地である。 人間は誰でも心の奥に有る寛大な利他の思いを現す時がより美しく魅惑的である。自分しか考えない時は心が狭く怒りっぽいのですぐ顔に現われる。 エゴを制御するには 修行する僧侶たちは自身の思考と物質主義に陥れる誘惑との戦いに努める。禅宗では心の内の感情的反応を冷静に観察することを水牛を手懐けるといっている。師僧は突然弟子に”どこからきた?” ”どこへいく?”と問いかける。混乱するか物事の外見への執着心を捨てたかを試すためである。直ぐに良い答えをすれば正しい修行の道を進んでいる、実際に今を生きていることを示している。正しい返事は”どこからも””ここです”といって、統制された心には距離も方向もないことを意味する。毎日小さくともなにか楽しみを断念する習慣を持って快楽生活に陥らないように耐えず自身で制御することは良い修行のひとつである 長年の間厳しい質素な生活をして貧しい人たちの世話に献身してきたある修道女が店頭に展示されていたミンクのオーバーを見て欲しくて5分間も動けなかったと自叙伝に書いてあった。或いは高級車に憧れる人もあるかも知れない。しかし禁欲によって内の力が増すが、厳しすぎると苦しみや欲求不満が生まれるので極端に走らないことである。修行によって精神的認識と動物的本能との隔離が生ずる。目的に達する前に内の成熟の度合いが試され試練や誘惑が往々にある。自信を持ちすぎると罠にかかる危険があるから常に導きを受けるべきである。 仏にすがり導かれて生きると大人になれる、祈りが心の奥に隠された苦しみを少しずつ溶かしてゆくので、自分を苦しめた意地悪さの裏に隠された相手の苦しみが察しられ許すことが出来るようになる。こうした重荷から開放されると自信がつき他人の思惑にとらわれることがない、安心して人々を愛することが出来る。一人ぼっちではない、思いやりある暖かい大きな慈愛に包まれていることを感じる。ユーモアが有ると時々自分で自分を笑って本気になりすぎることを避けられるし、世間的地位や外に与えるイメージに縛られなくてすむ。心の落ち着きを取り戻すにはゆっくりと深い深呼吸をする、仏の加護を頼んで深呼吸を繰り返すことである。 学校で子供たちに少し心理学を教えると良い。様々な人間の性格の違いを知れば他人とのより賢明な交流が出来るようになるであろう。 エゴの多様性と一体性 池の表面に風が吹くとさざ波がたつ、無数の小さいさざ波が無数の月を映し出しているのを、煩悩の風に無数の小さいエゴが競い合っているに例えることができる。各人がより良くなることを目指ざせば競争心が高まり刺激し合って互いに努力をするようになる。その中に専制的な人、自分しか考えない人、他人の思いを無視する人が現われると、エゴイスムや嫉妬心で全体に不調和が生まれ一緒にいる楽しみが失われる。池の上の風が静まると波が消えて静かな水面いっぱいに澄みきった大きい月が輝いて映る。共通の目的を持った和のあるグループでは、各人が自由に意見を出し合ってそれぞれ異なった見解を学び豊かに成長する。知らずにいた新しい才能が目覚めることもある。 人生の目的は偶然の出会いにもいろいろな面での交流を行って成長することである。我々は生まれて以来多くの愛と細やかな心使いを受けて育てられてきた。両親や世話をしてくれた人々を感謝の念で思うと優しさ、喜び、謙虚が大きくなり、一人ではないとの確信が持てるようになる。 生命は戦いや争いによって発展したのではなく様々な種類の協力によって共存成長してきたのである。 例えば、我々が食べ物を消化するも腸内にいる1キロ半のバクテリーの働きである。大きな樹木も根本の微小なバクテリー群の働きなしでは生命を保たれない。地上の哺乳類は海中で炭酸ガスを酸素に変える珪藻類のおかげで生きている。地球上の生命の保持のためにあらゆる種類の生き物が協力しあっているという真実を知ると謙虚になってどんな小さい生き物も助けようとする心が生じる。我々は弱くもろい、気候変化や将来危ぶまれている他の変動を生き延びるためには周りの自然環境を大切にし、各人が日常生活においても心すべきである。 私の体験では、苦しんでいる小さい虫や生き物に優しくすると後になって良いことが起きる。生命はひとつである。小さい生き物の苦しみを除くことは私自信の苦しみを除くになる。人生は人間性を大きくする協調の場である。時とすると敵は抵抗したり反論することや身を隠すことを学ばせる友と言える。単純素朴な人、乞食の言葉にも思いがけない賢明さが見られることがある。何人も軽蔑すべきではない。 日本にいた時、東京、京都、奈良などの街角で、四国でも托鉢をして歩いた。托鉢は他への思いやり謙虚を養う修行のひとつである。通る人たち鉢にコインを入れた人たちのために一心に祈るのは気持ちがいい。日本人と日本の風習について大いに学ばされた。 仏教では3段階の修行の仕方を言う。自分のために祈る、自分と周りの人のために祈る、最後に他の人々のためだけに祈る、自己を忘れ自身の悟りを求めることさえ考えないで一心に祈るのが最上である。祈りはエゴや感情を清めて心を広げ菩提心、慈悲の心を目覚めさせ、私利私欲を超えた愛に至る。生命は一体であると実感する智慧が湧いてくる。他の必要とするところを知り、敬意を持って応じると人々は安心し、友情、愛は一層大きくなる。功徳を全ての生物に捧げ、利他の心を地上の全ての生物に広げ幸せをもたらそうとする菩薩になって心の光を世界中に広げる。こうして世界全体の深層意識に働くことが出来るのである。 ある島で象の生態を研究していた科学者が草を食べては病気になっていた象の群れの一頭の象が草を洗って食べることをして回復した。それを真似た他の象たちも洗って食べるようになったので皆回復したことを見た。彼は離れた別の島の象も観察していたが洗って食べて回復していることを知り、遠く離れていても象たちは深層意識で情報を交換しあっていたことを発見した。 人間も同様にそれぞれが遠く離れていても、夜間身体の上にただよう目に見えない光によって夢やテレパシーで情報のやり取りをしている。我々は心で一体である。世に満ちる煩悩をしずめるように祈り助け合うことが出来る。例えば、きれいな花を見て孤独の人たちの心が和らぐように祈り仏に捧げるのも良い。 心の本性 自分はよく知っていると思って自分の考えに固執する危険が往々にしてある。初心を忘れずにいたいものである。実に多くの幻覚を消していかねばならないのが現実である。我々の世界観や修行についての理解の仕方は心と頭上”ウシュニシャ”の発達の度合いによって異なっている。菩提心をもってこの世の人々の幸せのために慈悲の心を目覚まし、空の瞑想によって無知や執着の最後の雲を払う。真の宗教者は無差別の菩提心を持って空の瞑想をする。修行の最終目的は無我に達することである。菩提心とは、大日経に”この世の全ての幻惑から開放する全知を与えるが知識や理解の対象になるものではない、なぜならその本性は言い表すことの出来ない空と同じであって、絶対的清らかさのゆえに特定した概念はなく不動、不分化、不変、不滅である。全ての生物の内に有る心の中に仏の全知の心が溶け込んでいる。”と説かれている。 真実の智慧は概念を比較検討する知能の知的展開ではなく、慈悲に満ちた愛が全ての言葉やイメージを溶かして特定した概念もない、はてしない輝く光の大海に入ることである。学んだり探求の対象になるものではない、思考は言葉によってなされるから限度がある故に真実の智慧に至ることが不可能である。光があらゆる存在の根源であり我々の意識も消えて空に溶け込む。なにかに達し実現することも実現する人もいない。自身の心の本性を知ると、見捨てられる、孤独、死などの恐れをしずめ、自分の存在価値を認め誇示したいという執拗な欲望から解放されるので最大の幻惑が消えて業と輪廻転生の繰り返しを断ち切ることが出来る。 仏教は欲望と執着が我々が個々別々に存在しているという幻覚をつくる基であり、なるがままに生きて現実のこの世や人々を顧みないこと説く。 マルセルプルーストの大河小説”失われた時を求めて”に繊細で可愛がられた子供時代、舞踏会や美しい女性たちと過ごした良き時代、華やかな上流階級を懐かしく思い出されている。すべてが幸福になるために欠かされない大切なことに思われていた。しかし時は過ぎて全てが枯れしぼんで消えていった。素晴らしく見えるが儚いことと肝要な物事との違いを知っておかねばならない。そうすれば精神的成長への多くの障害を避けることが出来る。深く瞑想に集中して自己を忘れると心の空なる本性を知ることが出来る。…