夢に導かれる

夢に導かれる

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宗教の世界は神秘で素晴らしい、
神秘とは我々が清められるに従って、様々な世界が啓示されるからである。素晴らしいとは
我々の内的体験による発見は想像を遥かに超えて不思議で慈愛に満ちていて皆が同じ一つの心
を分かち合っているからである。一人一人が宇宙の大海の表面に浮かんだ極めて小さい波のよ
うなものである。心で繋がっているから、各人の発展は人類全体の発展となる。皆は一緒に成
長している。
心理学では集団意識と言い、仏教では、帝釈天が張り巡らせた網に我々と目に見えないいくつ
もの異なる次元の世界に住む生き物全てと結ばれていると言う。宇宙は一つである。だから、
我々は互いに夢や直感により直接影響しあって生きている。
夢の世界
現代の科学はすべてを解くことができない、宇宙は光の大海の中を電波が縦横自在に流れてい
る光の大河であると言う。しかし、それぞれ異なる波長に何が生きているかは知らない。我々
の智慧と感受性は、少なくともこの分野ではどんな高性能の機械をも超えている。
人類の誕生以来、シャーマン(霊媒者)や宗教家、特殊な人たちはこれらの目に見えない世界
からのメッセージを、麻薬を使って恍惚状態になったり、あるいは夢で受け取っている。人々
の将来のための重大な事柄にはこうして伺いをたてて決定をした。
紀元前3000年以前に、メソポタミアでは夢の解読が行われていた。古代ギリシャには医学
の神
エスキュラペを祀った神殿が420もあったという。そこでは犠牲の動物の生皮に包まれた病
人を地面に寝せ、その前の祭壇で平癒の夢が見られるように祈る儀式が行われていた。
古代エジプトの王 (ファラオン) の側には夢を解読する24人の専門家が常時仕えていて国
政の助けをした。例えば、王が7匹の肥った牛の後に7匹の痩せた牛が続いた夢を見た時、7
年の豊作の後に7年の凶作が続くと解読されたので、王はさっそく小麦を保管するためのサイ
ロを国中につくらせた。
ユダヤ人たちは解読されない夢は手紙をもらっても開けて読まないと同じと言っている。
日本でも、昔は天皇の寝所の側で魔障を退けるために僧侶たちが祈ったという。
夢は人間が取るべき決定にしばしば影響を及ぼすから、答える前に少し待つほうが良い。夜は
いい考えを持ってくると言う諺もある。
夢の成り立ち
夢は我々の潜在意識の現れであったり、外から送られたメッセージであったり、或いは他の人
からまたは神からのお告げであったりする。また単なる肉体に溜まった緊張を解くためのはけ
口であることもある。
人間は、思い出さなくとも睡眠時間の20%、つまり100分は夢を見ているという。目が覚
めると8分以内に見た夢の95%を忘れる。だから、夢を思い出すためには直ぐに体を動かさ
ず夢の続きを何度も繰り返して思い浮かべ起き上がる前にノートするとよい。
長い年月瞑想をして修行を続けていると夢が変わってくる。心身の緊張を解くためでなく、浄
化され精神が鋭敏になるにつれて発見する新しい世界を探検する我々の意識の働きになる。長
い修行の間には夢や直感によって我々の進歩を見守り導く師僧や善き友たちと出会うのであ
る。
心理学と白昼夢の実践
人は多くを知るが自分自身はあまり知らないから同じ過ちを繰り返している。我々を育てる
時、時には親たちも誤りを犯したこともあろう。そのまま放っておくより自分で良くるように
努めるべきである。精神的に苦しんだ人を助けるのは容易ではないとどの精神治療医も言う。
打ち明けて話すようでも実際には本当に苦しむことは言わない、自分のしたことされたことを
恥ずかしがって隠すからである。目を覚ました状態で見る”白昼夢”の治療法は隠れた苦悩の源
を浮上させ開放するに効果的な治療法である。
まず、ゆったりと横たわってリラックスする。あるテーマに浮かんで来るイメージを眺める。
イメージはすべてが象徴で、例えば海の底、お城、火山等々、それに扉をつけたり、友だちを
呼んだり、自分の欠点を人物化して会話する、何を求めるのか聞く。どんな想像でもよい、深
層の意識に閉じ込められていた潜在意識の一部を認識するようになると心が安らぐ。

眠った時、目を覚ましている時を問わず夢で深層の意識から浮かぶ象徴的イメージは何でもな
い取りとめのないように見えて、意識でもって阻止することがない。その間、治療医が真言を
唱えていると、患者の深く抑えられていた感情が消えて解放される。
私が真言をとなえると、患者の身体の一部が暗く見えたりイメージが浮かぶのでそこに集中し
てお不動様の真言を唱えると、突然何の理由もなく泣き出す事がよくある。優しくどんな場面
が浮かんだか尋ね、彼の言う体験とは違う解釈をして説明し、肯定的な思い出として心が認め
るようにする。
愛染明王の真言をとなえると、エロチックな夢を見ることがよくあって、抑えられたエネル
ギーが心や頭の方に流れるようになる、性的に抑圧された人に効果がある。
この治療法は心の深い底まで変える素晴らしいものであるが、治療医は、責任感があり患者の
感受性を尊重する高潔な人でなければならない。
この実践はグループですることも出来る。一室に何人かが横たわっていると、各人の思い出が
混じり合うので思いがけない見当違いのイメージが浮かんで驚くことがある。眠っている時も
起きている時も、我々は絶えず互いに影響しあっているのである。
真理を求めて
奈良の東大寺の大仏の前に一心に祈った空海は、求める経典が久米寺の塔にあるという夢のお
告げで大日経を発見した。そして仏教の教えを深めるために中国に渡った。密教の師、恵果阿
闍梨は初めて出会った空海に長年待っていたと言って喜び、様々の教えを伝授した。存在も知
らない未知の人を待つことがありうるであろうか?恵果阿闍梨はすでに空海と出会って彼を選
んでいた、そして夢で大日経を見つけさせ中国に呼び寄せたと推定できないか?
優れた師僧たちは光の体が大きく発展し多次元に生きているから、遠く離れた人々の心の内を
直ちに感知することができる。教えをより良く分からせるために、どんな形を取ることも出来
るしどこにも行
くことが出来る。
私自身も、同じような体験があったことを思い出す。青木大僧正とパリで初めて出会いの一年
前に夢ですでに会っていた。先生の洞察は鋭く過ちを指摘されると弟子の僧侶たちから恐れら
れていた。
松本大僧正も将来をよく見通されるので、10年先のなすべき助言をされたことがある。
如何にして祈りを世界に及ぼすことが出来るのか?
科学的にみて、人間が思考によって外の原子を動かすことが出来ることは驚嘆すべきことであ
る。例えば、火の上を歩いたり、人との出会いや心理をかえることができる。我々は人間とい
うものの表面的な一部しか理解していない。
この仕組みを理解するためには仏教で言う3身の教えを知らねばならない。
1)ニルマナカヤ(応化身);現実のこの世界、地球にお釈迦様が現れて社会生活のための戒
律を教えられた。
2)サンボガカヤ(報身);流れるエネルギーからなる世界である。報いの世界とも言う。な
ぜなら人間は死ぬと前生で積み重ねた業の報いに応じてそれぞれの世界に行くからである。そ
こは一人一人のレベルによって異なり想像する蜃気楼のように様々の形や風景がある。
仏像が、時とすると非常に長くしなやかな腕をもって表されているのは、すべてが緩やかに流
体であることを象徴しているからである。この光の世界ではどこへでも、地の果てまでも素早
く移動し友人たちと出会うことも出来る。目を覚ましている時は我々には見えないが、彼らは
近くにいて我々を見守り直感を与えて導いてくれている。夢では彼らを見たり聞いたり、話し
も出来るので助言を頼むことも出来る。
3)ダルマカヤ(法身);空の世界、形もないし空間で方向もない。意識をいろいろな映像が映
し出される光の泡のごとく例えられる。経典にいう”一念三千世界”がこれである。
我々の硬い殻のような人間の肉体に固執しないなら、意識は極めて鋭敏な感受性を持ち遠く離
れたことも感知することが出来る。異なる次元の世界に生きることも出来るし、山や森、河な
どの生命を感じることが出来る。
こうした感受性を高める精神活動は自然の生命に密着して生きるシャーマンや、日本の神道の
生き方と共通している。。真言宗でいう大日如来は単なる抽象ではなくこの自然の生命を表し
ている。
普通、我々を見守ってくれている人たちは悟りに達していない先祖であり亡くなった両親や友
人たちで、第2の報界の極楽浄土で楽しく暮らしている。最上の法界の形ない意識に達した優
れた師僧たちは絶対知を得ている。
これら3段階の違いは、簡単に言うと悟りを開いた師僧たちは空の世界に行き、他界した近親

者たちは大海で様々な形をもって生きる、我々普通の人間は岸辺の大地に生きている。例えば
水が氷とも流水とも蒸気ともなると同じである。
この世の”善き友”とは
宗教家たちの祈りの大きな友愛が世界の成り行きを見守っている。仏教ではサンガと言いキリ
スト教では修道院と言って、善意で世のために献身している人々を祈りで支えているのであ
る。この加護を受けるためには広い心と和を持って生き、他の生命を尊重することである。
看護師の友人が病院で祈って不思議な助けを得たことを語った。ある時あまりにも興奮して半
狂乱になった患者の世話をすることになったが、鎮静剤の注射も出来ず途方にくれたので一室
に閉じこもって一心に祈った。しばらくするとなんとも言えないやさしさが身体に降りて来た
のを感じてそれまでの不安や悲しさが消えたので、患者を見に行くと、彼も静まり穏やかに
なっていたので必要な手当をすることが出来たという。
病院とか苦しむ人たちのいる所には、目には見えないが病人や世話をする人たちを助けようと
する”善き友たち”がいる。信じて助けを求めればよい。おそらく医師や看護師たちが死後も慈
悲から病院に留まって働き続けているのであろう。或いは祈りが遠くにいる修道者の心を動か
し遠くから助けを呼ぶ声を感知して救いが届くように祈ったためかもしれない。観音様が人々
の祈りを聞いて救いをもたらすと同じである。
修道院で暮らす修道者や修道女たちは毎朝早く起きて、人々のまたは世界の闘いや憎しみが消
えるように絶えず祈っている。また教会では人々が心の安らぎを見出すように教える。彼らは
欠かせない”大地の塩”呼ばれている。
弘法大師を慕う四国88箇所の巡拝をするときはお大師様が常に同行されるという。祈りなが
ら進むにつれておきた多くの奇跡が語られている、不思議な出会いがよく起こる。
私もいつも祈っているので、ふと浮かぶ直感に導かれて良い時に良い所に行き会わせることが
よくあるが困った人を助ける役に立ちたいと思って私に出来るだけのことをする。
私の子供時代の忘れられない出来事に、木々の茂る公園を牧師に連れられて歩いていた時突然
牧師が止まれと言ったので子供たちは皆止まった、2,3分後に大きな木が子供たちが歩いて
いるはずの場所に何の前触れもなく倒れ落ちた。牧師は重大事が起きることを直感で知らされ
たのであった。
眠っているときの夢とふと浮かぶ直感は同じ源泉から発信されたものである。未来の出来事や
起こる事故を予告するので、周りを見回して壊れたもの汚れたものなどがあると不吉を招くか
ら掃除をして清める、お供えをして安全を祈ると良い。

聖天様のお助け
宝山寺の中興開山、 湛海律師はしばしば夢のお告げを得ている。例えば馬のくつわの跡を掘
ると黄金が見つかる夢を見た。夢で見た八幡様の乗った馬の轡を持っていた侍が現実に大金を
提供したので寺の復興が完成されたという。夢のお告げは時とすると事実そのままではなくあ
ること暗示したり他へ導くきっかけになったりする。こうして人を試すのか或いはお告げが本
人にしか分からないようにするためであると思う。
私も聖天様から数知れないおかげを頂いた。ある日、天堂の側で知り合った天台宗の僧侶が歓
喜天のお像を彫っていると言い、後日その像を譲っていただいた。おかげで私は如法に浴油供
を修することが出来るようになり今もフランスで続けている。
良い時に良い人との出会いによって、フランス光明院を建立し修行を続けられるのも聖天様の
おかげである。また、事情が変わってお世話になった人に私の出来る分野でお役に立てたこと
もあったのはうれしいかぎりである。
”夢のヨーガ”の実践
悟りを開いた仏とは、意にまかせ自由自在に前述の三世界に生きている人である。到達するの
に一番難しい世界は空の世界である。なぜなら我々は実生活また感情でもこの現実の形ある世
界に根強く繋がっていて、人から愛されてる、生きていると絶えず自分を安心させずにはいら
れないからである。他の人々からの愛に頼って生きる子供のような心の残っている人間にとっ
て避けられない反応と言えよう。
自己への執着心はこのように持ち続かられていく。残念である。悟りは全てのはかないかりそ
めを超えたものであるからである。
密教でいう”夢のヨーガ”は、優れたこの道の先輩に導かれ、抱き合って空中で舞ったり飛んだ

りしながらより高い世界に至ることを教える。心と心の接触が二人のまだ眠っている長所を目
覚めさせ補い合う間にこの世での生き方や愛し方が変わる。地上の見慣れた形を去って、全て
が直ちに伝達し合う形のない世界に到達するためである。夢であるからお祭りに仮装するよう
にどんな姿にもなり、自分の身体や他の人達への執着から抜け出ることが出来る。一定の段階
を超えると性の区別も定まった実体もないし、時も仕切られた空間もなくなる。全てが幻であ
ると納得させられる。美醜にとらわれなければ感情をコントロールし心の平静を保って常に落
ち着いてどんな人にも親切に出来る。
宗教者のつとめは人や家族とかあるグループなどの限られた愛を捨てて世界中を包み込む永遠
の愛に達することである。それが同一体となることを意味する。
歓喜天に一体となることを学ぶ
歓喜天は観音様とインドの神ビナヤカとが一体となってそれぞれの長所、優しさとと強い力を
合わせ持っている。二体からなる神秘な歓喜天は姿形を超えたすべての心の集まりである宇宙
の愛を象徴している。真言を唱えると、内の心が開き他の心、生存者、すでに他界した人、未
知の人或いは遠い国からと時も距離も問題ではなく光の速さで訪れる人々の心を迎え入れ互い
に影響し合う。修法の間に仏たちに壇に降りてきて供養の品々をお慈悲でお受けください、祈
りを叶えてくださいとお願いする。この壇は大きな花のように開いた我々の心に例えられ、訪
れた”善き友たち”はこの上に仏の姿になって降りてくるのである。
修行では、まず空の世界に達したい次いで宇宙的愛を広げたいと思う。しかし何より大切なこ
とは自分の進歩は自分自身の努力の結果ではなくおかげを頂いたからだと認める謙虚さを持つ
ことである。
私の師僧は、自分が修行をしたのではない仏様がさせてくださったことを忘れないようにとよ
く言われた。キリスト教でも自分のしたことに得意になるな、自惚れになって堕落するぞと言
われている。
師僧と宗派、”善き友たち”を信じ感謝の念を持てば絶えず良い影響をいただける。アジアで、
とりわけインドでは師への尊敬心を持つことが大変重んじられているのは同じ理由からであ
る。
この伝統は、古代ギリシャにもあって、医学を学んだ学生は”ヒポクラット”に次のような宣誓
をした。”私の医学の恩師を私の両親と同じように大切にする、私の知識を分かち、もしもの時
には恩師を守る。私は一生無垢で清い心を持って医療につとめる。”
このような理想を持てば自分も”善き友”の一人になって人類を見守るようになれる。人々を助
け、夢や直感を与えて導くことが出来る。我々は発展するためにそれぞれが他の人々を必要と
する。だから、各人が長所を持ち合わせて他の人々と影響し合うことが出来るように寺院で皆
で一緒に祈ることが大切である。
夢のお告げ
1990年に、黒沢明監督の”夢”という映画が上演された。一生の間の様々な夢を綴った中
に、”赤い富士山”と題された夢があった。日本の原子力発電所の事故で6機の原子炉が爆発
し、日本中放射能で覆われ逃げるすべもないという・必死に子供だけは助けたいという女性も
いたが島国の日本では不可能であった。この映画を見てウラニウムはプルトニウムの爆弾のよ
うに爆発しないと思っていたので驚いたことを思い出す。当時、水が極度に熱されると水素と
酸素に分解しガス状の爆発物になることを知らなかった。福島の事故まで誰が想像したであろ
うか?チエルノヴィルの事故の後でも知らなかった。この映画から21年後の福島の事故に、
この夢がその前触れあったと思い知らされた。黒沢監督は日本に重大事件が起きることを予知
したのであろうか?国の将来を見通した”善き友たち”から送られたインスピレーションを受け
たのかもしれない。
その次の夢”嘆く鬼”の題で語られているのは、おそらく戦争で原爆でも落とされたか、国中が
荒廃しひどい飢饉におそわれ飢えに苦しむ人たちは生き延びるために鬼になって共食いをする
までになった。
我々は世界の将来を危惧し、もし世界戦争でも勃発したら飢饉が起きるであろうかと問わねば
ならない。世界の指導者たちは原子力戦争の結果を真剣に考えるべきである。近代驚異的な進
歩を遂げた原子工学に依存した機械、通信、交通機関等々、すべてが動かなくなる。近代的な
農業機械も勿論使用できない。現在の世界の食料保存は3ヶ月分しか無いという。7年の痩せ
た牛の夢のあと直ちに食料の保管を実行した古代エジプトのファラオンのように、今こそ現代
の指導者たちが人類の将来のために適切な良い政治を行うように神仏に祈ろう。

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